【AQUA233号】山口県柳井市で生物活性水プラントが稼働開始

 山口県柳井市にある河村邸で、生物活性水の実験用ミニプラントの設備工事に六月二四日に取りかかり六月二五日から培養調整を始めました。
 プラントは五〇〇リットルのポリタンクを使って、ばっ気槽としています。タンクは、全部で四基使っています。ばっ気用のブロアの電源は、ソーラーパネルを用いた太陽光発電でまかなうことも考えています。

 河村さんは、平成十九年全農チキンの代表取締役を退職後、出身地の柳井市に戻り有機農業を目指して様々な取り組みを始めたそうです。現在栽培している作物は、数十種類にもおよび特に水稲は、レンゲ栽培とミツバチによるレンゲ蜜の採取と採取後のレンゲの鋤込みと組み合わせ、レンゲ米と名付けて販売しています。このレンゲ米は、上関町の祝島で地産地消を掲げ、できるだけ島内で採れた食材をと、氏本ファームの放牧豚の豚肉や新鮮な魚、特産のヒジキなどを料理する土蔵を改装した食堂「こいわい食堂」にも提供されています。

 栽培している野菜の種類が多いのは、ここ柳井市では何が栽培に向いているのかをみきわめ、今後力を入れて栽培する作物を選定するために種類が多くなっているそうです。いまのところ、葉物の他、バレイショ、サツマイモに注目しているそうです。また県の推奨作物タマネギや山口特産の「花っこりー」なども考えているそうです。

 現在出荷先は、主に農協の直売所『元気百菜』へ出しているそうです。その直売所へ出荷している農家は二〇〇軒を超えており、主な品目は野菜、お米、花卉、野菜苗などで、直売所の年間の販売高は一億二千万円ほどになっています。
 今回のプラント設置については、パルシステム連合会のレインボーパル基金の助成事業として取り組んでいます。河村さんとパルシステム連合会との関係は、平成七年からパルシステム連合会と全農グループの産直事業に取り組んできたそうです。
 河村さんは、できた生物活性水の活用は、地元JAとも相談しながら、直売所へ出荷している農家に呼びかけて、新たに有機栽培に取り組み地域づくりに役立てたいと思っています。
 その取りかかりとしてまず河村さん自身が、生物活性水を耕作に活用するため、レンゲ米の水田に使用して食味の向上をねらっています。そして有機栽培に必要な堆肥や生物活性水は、地元の繁殖牛農家の牛糞堆を利用し連携を深めていく予定です。

㈱匠集団そら 星加 浩二

Author 事務局 : 2011年08月01日11:50

【AQUA233号】韓国BM訪問記

 かって3・11前までは、口蹄疫で世は騒然としていた。宮崎でも韓国でも口蹄疫は猛威をふるった。両国のBMW技術関係者は交流の自粛を余儀なくされた。数ヶ月を経て、韓国のBMW技術の導入農場に口蹄疫が入っていないというニュースが河さんの会社から飛び込んできた。私は、すぐにも見に行きたかったが自粛し、今回、騒動が治まったと聞いて久々の訪韓となった。

 ウイルスとBM技術
 確かに、韓国では、BMW技術を入れた農場では口蹄疫は発生していなかった。けれども、農家は「あれも使った。これも使った。BMWだけが効いたとは、はっきりいえない」と、いっているとのことだった。
 「農民の根性なんてそんなもの。日本も同じだよ」といって河さんら韓国BMスタッフの努力を慰労した。
 鳥インフルエンザにしろ、口蹄疫にしろ、ウイルスである。彼らは、まだ生物と無生物の間のものといわれていて正体がいまだわからないものである。だから、私は、このわけのわからないものとの闘いは、免疫力しかないと思ってきた。BMW技術は腸内細菌の菌相を整え(平衡)、腸膜の下にびっしりといるリンパ球を保全している(もちろん畜産にあっては、ストレスのかからない飼い方がその前提である)。だから、農民の根性など煮ても焼いてもどうなるものでもないから、放っておけばいいのでは、といった。現に政府は俯瞰的に見ている。事実に基づいて、BMW技術が口蹄疫を阻止したことは一目でわかる。
 私が訪韓した時点で、すでに七つの自治体がヤンピョン方式を採用し、プラントを河さんの会社に発注したし、大きな農協も動き出していた。だから、民間(農家)からのプラント受注は待ってもらっているという状況であった。

 飲水改善と生物活性水はセット
 日本では、ユーザーの経済状況、当面の課題等で飲水改善だけのBMプラントを受け入れてきた。とにかく、悪臭とハエの除去が課題であった。けれども韓国にあっては、二つの系統は両全なものとして実施してきた。飲水で家畜の内部を守り、生物活性水で畜舎を守るというのは、自然な行為である。日本も技術の原則に立ち返るべきであろう。もうすぐ、BMW技術の最先端地は韓国となるだろう。
 河さんの会社(株式会社「BM水」)はソーシャルカンパニーとして体制を変えた。日本のように「芸無き旅芸人」「フロント係」「マヨネーズラーメンを求めて三千里」「飯田橋ブラブラ病」な社員もおらず、志気も高い。

 プルム農学校
 最初にプルム農学校を訪問したのは一二年前のことだった。今では、当時と比べてその規模も大きくなり、日本のパルシステムも参加、協同している「生き物観察」のメッカとなっている。学校の校是は「偉大な平民づくり」である。
 元校長の洪淳明(ホン・スンミョン)先生にお会いした。先生曰く、「家も共同体も教育も、みんな農村から都会に出て行っておかしくなった。田舎から立て直す時代が来た」という話であった。自然から遠くなった分だけ「近代化した」といい、自然を疎外した量の大きさで大都市と中、小都市をわける。しかし、今の日本で田舎は立て直せるだろうか。何もかも根こそぎにされ、擂りつぶれてしまっている。BM技術協会の役割は大きいと感じた。
 ミンチョル先生にも会ってきた。プルムの専攻部(高校の上の課程)は、農業作業の人も含めて五〇人規模になっているという。
 段取りと労務管理が大変だね、と私がいうと「働く奴は働くし、働かない奴は働かない。農村はそれでいいんだ。みんなで生きていけるのが農村だ。働く奴は昼間から酒も飲むし議論もする」というものであった。目から鱗であった。
 釜山には古い原発がある。これに事故が起これば、日本の福岡も終わる。「放射能に国境はない」という話が、最後の晩の話題であった。私は金芝河(キム・ジハ)先生の話をした。
 「きれいな小川のちいさな生き物が死んでしまえば、ちいさな子供たちの魂も死んでしまう」というような話だ。
 私たち日本人は、半径一〇〇キロ圏内かどうかわからないが、ちいさな子供の魂が死んでしまう国土を愚かさ故につくってしまった。
 子供を救え!ちいさな生き物を救え!

BM技術協会 常任理事 椎名 盛男

Author 事務局 : 2011年08月01日11:47

【AQUA233号】「瀬戸内海『祝島』を訪問して」

「瀬戸内海『祝島』を訪問して」
原発建設予定地で生きる人々

 前回の福島第一原子力発電所の事故で汚染された福島の現場リポートに続く第二弾。山口県上関原発建設予定地で根強い反対運動を続けてきた祝島の人々のリポートをお届けします。この地域の原発計画は、日本で最後の新規立地といわれ、全国からも大きな注目を集めてきた地域です。『祝の島(ほうりのしま)』、『ミツバチの羽音と地球の回転』など、祝島の闘いを扱ったドキュメント映画の公開により、各地で上映運動も行われてきました。瀬戸内海の美しい島にモンスターのように襲いかかる原発計画、その現場をご紹介します。

 上関町は、山口県の南西部、瀬戸内海と豊後水道に近い室津半島の先端に点在する島々によって構成されている。上関町の由来は、瀬戸内海の「西の関」(入り口)という説があり、昔は海上交通の要衝とされてきた。戦時中は、呉軍港から出撃する日本の軍艦や輸送船を狙う米軍の潜水艦の待ち伏せ海域であった。
 原発建設予定地の「田ノ浦」は、黒潮に洗われる温暖な気候、田ノ浦の山の水と海の湧き水が混じりあい、他にはない独特の生態系を維持してきた。
 一九八二年、中国電力は一三七・三万キロワット・二基の原子力発電所の建設計画を発表した。以来、三〇年近くにわたり、地域を二分する推進、反対の運動が闘われてきた。過疎の町に付け込む中国電力の宣撫活動によって、町役場側は、原発関連の財源に依存する立場をとり、歴史的な自然と生活を守ろうとする地域住民との対立というお決まりの構図が繰り広げられた。とりわけ、田ノ浦の対岸三・五キロに位置する祝島では、島民の九割が原発計画に反対しており、これまでの工事予定をことごとく延期に追いやってきた。

 その祝島を訪れてみた。広島駅から山陽本線で一時間半、柳井港駅の前に、祝島行きの港がある。三〇トンクラスの小さな定期船に乗ると一時間一〇分ほどで祝島に着いた。あいにくの空模様だが、島の人々の活気を感じることはできた。島外の高校に通う生徒たちや買出しに船を利用するのだろうか、たくさんの生活物資らしき荷物とともに乗客が降りる。島の言葉が行き交う船着場は、さながら島の社交場のようだ。
 船着場から二分ほど歩くと「わたや」という五、六人も入ればいっぱいになる小さな軽食堂がある。そこで「上関原発を建てさせない祝島島民の会」事務局の山戸孝さんと待ち合わせをした。三四歳の若者であった。
 「島の人口はいまは五〇〇人を切るほどになっています。そのうち七〇名が漁業者で、あとは農業を営むことで生計を立てています。豊富な漁業資源、海を守る深い森、島の自然は私達の誇りですね。みんな自然からの恩恵で暮らしている。それが原発の建設で、島の生態系に大きな影響をもたらすことにみんな心配しているのです。だから、島の九割の人たちが原発に反対しているのです」
 中国電力が対岸の田ノ浦に建てようとしている上関原発は、計画が浮上してからすでに三〇年にもなる。この間、島や田ノ浦など上関町全体を二分する対立が続き、原発本体の建設どころか、予定地海面の埋め立て工事に着工することすらできていない。しかし、3・11福島第一原子力発電所の事故をへて町の受け止め方も変わってきたようだ。
 六月二一日の上関町議会では、柏原町長は「原発のない町づくりも考えておかねばならない」と微妙に態度を変化させている。また、上関周辺の自治体でも変化が見られる。周防大島町議会は、六月に入って、上関原発に反対する意見書を国や県に求めている。上関原発から三〇キロ以内の同町では、「福島並の事故があれば『観光の町』どころか『死の町になる』」というのがその理由だ。すでに五月には周南市議会で上関原発の中止を求める意見書が採択されている。3・11福島の事態は、上関原発を容認してきた周辺自治体の反対の声が徐々にではあるが聞こえてくるようになった。
 推進派が原発の誘致を望むのは、いうまでもなく金である。一九八四年~二〇一〇年度までに原発がらみの交付金は四五億円以上が町に入った。上関小学校には室内プールができ、各地の診療所も整備された。中国電力も交付金とは別に二四億円を町に寄付している。建設工事は「過疎の町には経済の起爆剤になる」と期待する町議や業者も少なくない。
 「それでも祝島の住民は一貫して反対を唱えてきました。一〇億円を越す漁業補償金の受け取りも拒否してきたのです。祝島の漁民は船を出して調査や着工を阻止してきました」と山戸さん。ただ、「思想信条で反対しているわけではありません。自然ではメシは食えないというが、この島では自然でメシを食ってきた。3・11の事故が、もしこの島で起きたら避難する場所もない。海が荒れていたら船で避難することもできない。事故の場合の手立ては何も提示されているわけではないのです」
 祝島では、毎週月曜日、島民がこぞって原発反対のデモを行っている。それも二九年間におよびこの六月二〇日のデモで一一〇〇回目になるという。
 「デモは島のメインストリートを三〇分ほど歩きます。昔はもっと長かったけど、いまは参加者の年齢と体力を考慮して、体調を気遣いながら歩いています。デモといってもおばちゃんたちは作物の出来具合とか、健康のことだとか井戸端会議の延長のようなもの。そうでないと三〇年も継続はできません」

 日の出の真正面に
   原子力発電所が立つのは許せない
 祝島の人々が反対するのは、島の水産資源や農業など島の自然環境を守りたいという意識が強いということもあるが、山戸さんが意外な視点も話してくれた。
 「本土の人や室津半島の人々から見ると田ノ浦は、いわば背後にあるのです。つまり、過疎地域の端っこにあるという意識です。しかし、祝島から見ると田ノ浦は真正面で、朝の日の出がちょうど田ノ浦の山の上に昇るのです。だから原発が建設されれば、毎朝、朝日が昇る正面に原子力発電所を臨まなければならない。そんな位置感覚にも我慢できないのです」
 若い山戸さんは、同年齢の若い人々数人と、農産物や海産物の加工業を手がけている。「祝島市場」という屋号で、島のみかんやびわ、びわ茶、干しひじき、もずくなどの加工食品を作りネットで販売するのが主な仕事だ。
 「原発の反対運動だけが取り上げられるが、島には生活があります。若い人々と島興しにも取り組んでいることも発信していきたいと思っています。現にUターンしてきた島の若い人々もやる気満々なのです」(この後、山戸さんに加工場をみせてもらった。五、六人ほどの若者たちがもずくの加工などの作業を続けていた) 

 自然放牧で豚の飼育に携わり、
循環型の農業に貢献
 次いで、祝島のなかで唯一のランチ食堂「こいわい食堂」を子女将(こかみ)の芳川太佳子さんと運営している氏本長一さん(六一歳)をお尋ねした。本来は畜産農家で、豚の完全放牧(三四頭)を島内の耕作放棄地四ヶ所、約四ヘクタールで飼育している。もともと祝島出身で、五年前に北海道からUターン。第二の人生を島で自然とともに暮らすことを決意した。
 「生態系の一部に身を寄せて、自然に学ぶという暮らし方が一番」と、豚の放牧の傍ら地元の食材に限定したランチ食堂を開設したのも氏本さんの生き方の現われだ。
 「島のお米をカマドで炊いて、島の農産物や魚介類をできるだけ手を加えずに調理することを心がけています。海や水田の神様に感謝しながら、食事をいただくという謙虚さが必要だ」と話す。人間が謙虚さをなくし、科学の名のもとでの傲慢なふるまいが福島原発事故に繋がったという思いからだ。

 長崎原爆の生き証人として
被ばくイネを育てる
 氏本さんは今回の3・11の原発事故をみて実感したという。
 「福島原発から被ばくの広がる事態は、人間が本来手にしてはいけない、手にすべきでないのが原子力だと思い知らされた。原発は原爆と違って核の平和利用であり、人類の科学の発展だとする議論がとんでもない欺瞞であることを示してくれた」と話す。
 氏本さんは耕作放棄地の一角を水田として利用し、長崎に原爆が投下された際に長崎の水田で被ばくしたイネを育てている。上関原発に反対する支援者から、被ばくイネの稲穂四本をもらいうけ、育苗し田植えしたものだという。
 「長崎被ばくイネは、稲穂の半分が空モミ(殻の中に実が入っていない)で、大学などの研究によると原爆の放射能で被ばくし、イネの染色体に異常をきたした結果」なのだという。長崎の原爆から六六年。このイネは六六回もの世代交代を繰り返したことになる。
 「広島や長崎の被ばく体験者は高齢化から年々、その体験を伝えることが難しくなっていますが、このイネは、長崎原爆での人間の愚かさをわかりやすく伝えてくれる生き証人だと思います。だから、私は、このイネを被ばくイネとして育てているのです」

 「原爆も原発も、被爆も被曝も基本的には一緒だ」と考える氏本さんは、福島原発の避難者をこの祝島で受け入れようという運動の窓口役も買ってでた。
 「私たち島民の会では、福島の被災者の避難先として受け入れる運動も行っています。すでに一組の移住者を受け入れました。今後、自主的な避難を希望する人々にもきてもらいたいと思っています」
 原発建設に向き合う祝島の人々、福島原発で放射能汚染にさらされた人々、向き合う立場は一緒なのだと話す氏本さん。原発のない暮らしを求めて、今後も島の歴史や文化を守っていきたいと話していた。

BM技術協会 事務局 大田 次郎

Author 事務局 : 2011年08月01日11:38

 
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