【AQUA231号】福島第一原発事故 被災報告

 今回の東日本大震災におきまして被害に遭われました皆さまには心よりお見舞い申し上げ、また一日も早い復興をお祈りさせていただきます。
 さて、今回の福島第一原発の放射能漏れ事故につきましては、当初福島第一原発付近のみであとは太平洋に出て行ってしまうような気がしており、私の住む静岡県までまさか被害が及ぶとは想像もつきませんでした。(編集部注:汚染原因が福島原発か浜岡原発か、まだわからない)
 静岡はセシウムの検出被害が多く、暫定基準値は生葉、荒茶、製茶、共に五〇〇ベクレル以下ということになっています。いったいどうして検出されてしまうのか、よくわからないのですが特に中部の山岳地帯に多く、地形の影響によるものが多いと言われています。
 そのため、生産農家、加工業者、販売業者など静岡県のお茶関連商品の販売の落ち込みはひどく今後農業や製茶業を継続できるかの瀬戸際まで来てしまっています。例年なら六~七月は二番茶の収穫製造時期ですが、売り先もあまりなく農家は仕方なしに二番茶を刈り捨てています。そこで現在、出荷停止になりました葵区、清水区の農家や、それ以外の近隣の農家と共にJAグループ、共同工場を中心に、実被害や風評被害の賠償請求のとりまとめ準備を進めている状態です。
 さて、広い意味で今後の事を考えると、経済中心から、生命中心に価値観が変わるチャンスかもしれません。私達はお金さえあれば何でもできると過信しすぎていたのかもしれません。
 生命はそれを維持するのに毎日食事をしなくてはなりません。それには人間以外の生命を殺して食べているのです。だから昔から食事をする時に「いただきます。」といいます。これは、相手(動植物)の生命をいただくという意味なのです。
 BM技術協会が推奨する循環型社会(農畜産物、エネルギー)をもっと庶民レベルまで広く浸透させ、人と人が助け合える社会が出来ることが一番重要かと思います。今後とも微力ですが精進努力して行きたいと思います。

静岡県 お茶の村上園 村上 倫久

Author 事務局 : 2011年06月01日01:56

【AQUA231号】福島の放射能汚染地域を訪問して

「福島の放射能汚染地域を訪問して」汚染された農地で生きる人々


 二〇一一年三月一一日、太平洋側の東日本広域を襲った東日本大震災は、多くの人々に苦難と悲しみをもたらし、被災者の方々は今なお言葉につくせない試練の中にあります。
 そして、この東日本大震災により福島第一原発は水素爆発を起こし、生態系に大量の放射性物質を撒き散らし、多くの生命体に脅威を与えています。
 BMW技術は、地域生態系を保全・再生する生産・生活を通じ、生命体がその命を全うできる循環型技術と地域社会を追求してきました。しかし、福島第一原発事故による放射性物質の拡散は、人々の生活や生産の営みを崩壊させ、あるいは脅威に陥れ、生命体を危険にさらしながら、生態系の物質循環の中にそれが複雑に入り込んでいく事態と言えます。
 今号では、福島原発事故の影響を、農業現場のレポート等を中心に報告します。
 本紙「アクア」では、福島原発事故の影響、関連する取組みや情報等を今後、随時、紹介していく予定です。

 六月二五日(土)梅雨空の中、福島県を訪ねた。3・11東電福島第一原発事故から三ヶ月あまり、原発爆発の当初に比べれば、全般的に放射線量は減少したとはいえ、依然として福島の人々は不安と恐怖の生活を強いられている。
 最初に訪れた二本松市は、飯館村の北西、福島第一原発から六〇キロ圏にもかかわらず、赤いベロに舐められたかのように放射能汚染のホットスポットが点在している。今回訪れた近藤恵さん(三二歳)は、新規就農三年目の若い夫婦で六歳と三歳の二人のお子さんと四人家族。
 「3・11直後、福島第一原発が爆発を起こしたとき、実際の状況を確かめるまでは子どもたちを避難させなくてはと、実家のある東京へ避難しました」という。しかし、四月に入ると子どもの通う小学校から再開の通知。宮城や東京の親戚に子どもを預けることも考えたが、避難区域に指定されていない以上、二本松市でやっと手に入れた農地で暮らすしかない。子どもたちはマスクをして登校し、窓を開けるな、土には触れるなと、野外での活動は自粛を求められる。さらに、今は出荷制限をギリギリ解除されたものの一時は一、〇〇〇ベクレルを検出する葉物もあり、汚染されていることは間違いない。二本松市の年間積算線量の発表では、七・三ミリシーベルト/年(自宅近隣の岳下)~九・六ミリシーベルト/年(二本松市役所付近)の推定値を示していた。(五月二九日発表)
 近藤さんは言う。「風評被害というが、風評被害とは根拠のない噂による被害です。私たちの農地は実際に汚染されたのです。汚染されている農産物を『風評』だといって食べてもらうわけにはいかない」と、有機農業を選択した農業者のプライドを覗かせる。
 近藤さんが専業農家を目指して、この地に移住してきたのは五年前の二〇〇六年。水田二ヘクタール、畑一ヘクタールのすべてを有機農業で栽培している。
 「自分や家族の食べ物を自ら生産できることは私には大きな喜びです。味噌、醤油、食用油、パンのほかに、麹、お菓子なども地元の加工所の協力を得て自給できており、とても楽しい」と、原発事故前の夢と理想の実感を振り返った。

 近藤さんにとって希望に溢れた暮らしは、3・11で一変した。出荷制限が出された四月、ほうれん草、小松菜、レタス、キャベツが対象となった。
 「二本松市は人口約六万人で、ここは旧二本松の岳下といわれる地域です。避難するひとはまだ僅かですが、福島市と同じくらいの汚染分布です。年間積算線量一〇ミリシーベルトに近い数値ですので、市民の間で避難の声がささやかれているのは事実です」

 私たちはモルモットではない
 近藤さん一家は、避難区域とさほど変わらない放射線量の中で暮らすことへの不安と怒りが収まらない。いつか避難を求められるかも知れない。「なぜ、医者や研究者が立ち上がってくれないのか、除染や放射能の健康への影響などをもっと具体的に調べてほしい。私たちはモルモットではないのです」
 そして、近藤さんの怒りは、国や自治体にも向けられる。
 「復興を言う前に、原発政策の推進の反省をまずしてほしい。国や県知事も原発の推進に賛成していました。どこがどう間違っていたのか、これを明らかにしないで、復興などありえないですよ」と憤懣の表情。しかし、やり場のない怒りをぐっと抑えることも忘れない。希望のある汗を流したいという気持ちが強いからだ。米や野菜の生産が無理なら、花はどうだろうと考えた。「五月初めにひまわりを植えました。放射能汚染土壌の浄化に少しは役立つのではないかと考えたからです」
 近藤さんに案内されたヒマワリ畑には、ひざほどまでに成長したヒマワリが元気に育っていた。この夏、花が咲けば、黄色いお花畑。近くを走る東北自動車道の車窓からは、きっと美しい復興の兆しの風景を臨むことができるはずだ。
 近藤さんの希望の光がふたたび灯ること願うばかりである。

 美しい村、飯館村
 次に訪れたのは、すでに計画的避難区域に指定され、村役場は福島市に引越し、六、〇〇〇人余りの住民が避難した後の飯館村だ。伊藤延由さん(六七歳)。もともと農家ではない。東京に本社を置くIT企業が企業の新人や若者たちに農業体験をしてもらおうと、昨年三月に宿泊研修施設「いいたてふぁーむ」を開所した。伊藤さんはその管理人である。近隣の農家の指導を受けながら初めて農業に取り組み、二町歩ほどの田んぼを無農薬で耕作してきた。以前から農業の価値を理解し、一度は農業に挑戦したいと思っていた伊藤さんは、今年はさらに近隣の田畑を借りて規模拡大をはかろうとしていた矢先の原発事故だった。
 「原発事故の当初は、飯館村がこれほどひどい汚染にさらされているとは思いませんでした。昨年に収穫した米や野菜の評判も良く、販売先のお客さんもリピーターとなってくれた。しかし、その後の報道で飯館村の汚染がひどいことがわかり、村全体の農地(二、三〇〇ヘクタール)が作付け制限の対象となりました」と伊藤さんはショックを隠せない。
 飯館村は、標高二二〇m~六〇〇mの阿武隈山系の高原の美しい村である。老人は三人に一人。村の伝統である「までいの力」(一人ひとりが幸せになる力)で、村の振興に取り組み、人づくりに励んできた。周辺の市町村が次々と合併を繰り返す中、飯舘村は「合併拒否宣言」をした独立精神の強い村である。
 村の中心部で伊藤さんと待ち合わせをしたが、すでに線量計は二・四二~四・七〇μシーベルトを表示していた。伊藤さんに案内されて、研修所のある野手神地区に向かった。途中の道の両側に広がる農地は、作付けが禁止されているため、すでに草ぼうぼうの状態だ。
 「住民の大半が避難したといっても、かなりの数の村民は残っています。私は村の中では移住者ですが、村を守りたい気持ちに変わりはない。村の人たちだって避難してどっかに行きたいわけがない」
 伊藤さんの村への愛着は誰にも引けをとらない。その証拠にこんなエピソードがある。

 一人決起で東電社長に抗議文を突きつける
 五月初旬、飯館村役場に謝罪にやってきた東京電力清水社長に抗議文をしたため、一人で抗議したのだ。側近の垣根を掻き分けて、東電社長の前で抗議文を朗読しはじめたのである。さすがにこの唐突な抗議に東電側もたじろぎ、黙って聞いていたという。
 「この抗議の少し前、朝日新聞でこんな記事がでていたのですよ。『原子力の選択肢を放棄するな』と題する東京電力顧問で元参議院議員(自民党)のインタビュー記事でした」。その記事には「放射能に対して過剰反応になっている。むしろ低線量の放射線は体にいい、ということすら世の中でいえない」という主旨の発言だった。(五月五日付、朝日新聞)
 「本当に腹が立ちました。放射能の汚染によって農業ができなくなり、多くの人々が避難を強いられる中、よくもこんなことが言えるものだ。これはだまっていてはいけない」と、伊藤さんの東電社長への抗議、単独決起となったというわけだ。
 「住民に対する東電の説明会でも私の抗議でも、抗議文の最後に必ず回答せよ、と付け加えた。でも一度だって回答は返ってこない。東電はこういう体質の会社なのです。この会社に原発というおもちゃを与えたのがそもそもの間違いだった。つくづくそうおもいましたね」
 伊藤さんはこれまで何度もマスコミの取材を受けている。だから、マスコミへの不信感は根強い。
 「今のマスコミは村民の『怒り』というものを記事にしない。ただ、どれだけ避難したのか、いま村はどういう状態なのか、経過だけしか書かない。そこに人間がいて、どんな感情をもっているかについては触れないのです」この気持ちをガンガン伝えて欲しいのだと語気を強めた。

 伊藤さんの研修所や農地を見せていただいた。裏の棚田に「米と稗」が作付けられていた。だがこの作物は売れないはずだ。農地での線量は、七・五μシーベルト。雨どいの下は、なんと一三〇μシーベルトを記録して線量計の警報音が鳴り出した。伊藤さんによると雨どいの下は五月中旬には三四〇μシーベルトもあったという。伊藤さんの線量計は一〇μシーベルトに警報音を設定していたが、それではどこに行ってもピ、ピと鳴るので、一〇μ設定は解除したというのだ。
 これからの計画について伊藤さんに聞いてみた。
 「チェルノブイリで菜の花がよいと聞いていたのですが、菜の花の種は手に入らず、昨年植えつけたヒマワリの種が残っていたので、それを植えました。この種はF1で発芽しないときいていたが、かなり芽をだしましたよ」伊藤さんの顔が少しだけほころんだ。
 「私は実は、住民票を移していない村民なのです。村役場はわたしがずっと住んでいることを知っていますし、おそらく作付けも知っているでしょうが、何も言ってきません。私は村外から通ってでも村を守りたい、畑を守りたいと思っています」
 伊藤さんの孤高の闘いは、まだ始まったばかりである。

 六・二六 福島市民のハンカチパレード
 翌日の六月二六日は、福島市で開催された『グッドバイ原子力!さよなら放射能!福島ハンカチパレード』に参加するため福島市を訪れた。福島市は東京電力福島第一原子力発電所から北西の約六〇キロに位置するが、放射線量は二六日当日で平均二・三μシーベルト/毎時とかなり高い。だが、三〇万人の市民は普段どおりの生活を続けている。とくに子どもたちは大丈夫なのかと心配だが、私たちにはどうすることもできない。
 午後からの集会に先立つ午前一〇時、福島駅前のイベントホールで脱原発「生活村」が開催された。原発や放射能の実態をさまざまな角度から説明するコーナーが設けられ、避難希望者には受け入れ先の紹介コーナーまで設けられていた。若い母親の子ども連れが目立つ。
 午後一時半には、福島県庁前の広場で「グッドバイ原発!さよなら放射能!福島ハンカチパレード」集会が始まった。当日はあいにくの大雨、気温は低く、放射線量は高い(会場は三・六μシーベルト程度)寒さに震えるほどの天候だが、集会では福島県内外から女性を中心に一、〇〇〇名以上の参加者の熱気があった。発言者の一部を紹介しよう。

●「放射能から子どもたちを守る福島ネットワーク」佐藤幸子さん(文科省抗議で二〇ミリシーベルト基準を撤回せよと迫った市民グループの代表)
「原発事故を起こしたフクシマとして世界中で有名になってしまった。子どもをここに居させてはいけない。しかし、国は聞こうとしない。こうした国には子どもはおけないとさえ思う。一人でも多くの子どもを遠くに逃したい。個々の家庭にはそれぞれ事情もあるし、お年寄りが残りたいという気持ちもわかるし…」
●「福島の老朽原発を考える会」青木さん
「いま、ここで佐藤雄平県知事のいる県庁前で声を上げることの意味は大きい。国も県も二〇ミリシーベルトを明確に撤回したわけではない。精緻な調査、子どもたちの避難など国に認めさせなければならない。問題は山積みだ」
●浪江町の酪農家、佐藤健太さん
「原発から一六キロの地域で酪農をやっています。三〇〇頭の和牛を飼っている。週に一度、自宅に戻って牛の世話をしているが、国は殺処分しろと迫ってくる。そんなことは到底できない。(警戒区域で入ることは禁止されているはずだが、佐藤さんのように検問をかいくぐって、家畜の世話する酪農家も少なくないようだ)

 そのほか、福島県内に住む在日外国人、丸木美術館、同日の京都行動とのアピール交換などがあり、午後三時ごろデモは出発した。県庁から福島駅に向かい、福島市街を一周するようなデモコース。参加者はデモになると一、二〇〇人から一、五〇〇人に膨らんだ。地元の人によると、この規模のデモは福島市はじまって以来とのことだ。
 科学技術信仰の破綻
 取材を終えた後、このたびの福島行を振り返ってみた。
 3・11後に私たちは何ができるのか、やはり生活や考え方を変えることしかないと思う。私たちが享受してきた成長経済信仰。物質文明の豊かさの基本はやはりエネルギーの物量的な豊富さにあった。敗戦で見せ付けられた米国の圧倒的な物量への憧憬の影響は大きい。その後、日本は、成長戦略の要にエネルギー産業・原子力産業の育成に資本を注ぎ込んできた。戦前の未熟な資本主義を大量生産と大量消費に変え、資本循環と蓄積をひたすらめざしたのだ。その後、主要産業の盛衰の変異など曲折はあったにせよ、この道筋にそって、原子力産業のゴジラ化は戦略上の大きな位置を占めてきたのである。
 戦前の財閥の末裔たちは、財界の中心に座り、かつ政界に隣席することで、戦後の経済成長の舵取りを独占した。しかし、資本主義経済のサイクルは、人間の思想や感情とは無縁なところで走り出す。成長主義の幻想に惑わされた国民の補佐を得て、近代科学はゲームのような万能の道具になった。
 科学を道具として扱うには、その権威付けが必要だった。科学信仰の誕生である。本来、信仰は、長年の人間の経験や歴史の智恵に関わるものだが、この人工的科学宗教は、利益を得るための信仰である。それにメディアのプロパガンダが合体して、社会や教育に拡散した。原子力産業という化け物は、さまざまな亡者の夢の巨大なゴジラを生んだのだと思う。
 五〇年前に立ち返ると「官・産・学の協同」。原子力産業は科学信仰と官・産・学界連携の力を背景に「原子力の平和利用」という制御不能な神の領域に踏み込んでしまった。官・産・学の協同のひとつの結果が、「原子力ムラ」だ。「原子力安全委員会」「原子力保安院」「東京電力」がみんなグルだったという構図に帰結したのである。学問や研究のモラルは、国家や企業からの独立性を捨てれば死滅する。「科学技術」から「思想」が抜き取られ、テクノロジーのゲームが暴走したのだ。核のゴミの最終処理の見通しなどないことは、みんなわかっていたはずである。先送りの無責任さに科学技術は目を瞑ってきたのである。
 その一方で、宇井純、水戸巌、高木仁三郎に象徴される対抗科学の良心は踏み潰されてきた。科学技術が人災をもたらしたことについて、BM技術協会の長崎浩顧問は、毎日新聞(四月二一日付)の文化欄でこう書いた。
 「地震は天災で、原発事故は人災だといわれるが、ここでいう人災は、単なる操作ミスや設計ミスの次元に還元されるべきものではない。科学技術がその最先端ではしなくも露呈させてしまう危険として、今回の事態はまさしく人災なのである」
 この災害は、科学技術が国家や経済界の利益にのみ奉仕してきたことに対する、自然の逆襲であった。大自然の摂理を無視した科学技術の帰結である。その寄って立つ基盤の危うさを根底から見直さない限り、今後もカタチを変えた科学主義が跋扈するだろう。エネルギー政策の転換や自然エネルギーの利用という選択肢議論の前に、本質的な近代科学主義の見直しの議論が必要なのではないだろうか。
 そして、戦後最悪の惨事を目撃した私たちは、一九四五年の敗戦に重ねてみること、つまりこの事態は「第二の敗戦」だという認識をもたざるをえない。今回の取材で被災した人々の言にあるように、復興のためには、何が悪くて、何が間違っていたのか、これをあきらかにしない復興はありえないということである。一九四五年の敗戦では「一億総懺悔」という一人の評論家の言葉で、膨大な悪や間違いが拡散してしまった。「がんばれ日本!」のスローガンにマユツバの視線を向けざるを得ないのは、第一の敗戦の轍を踏みたくないからだ。
 「過ちは繰返しませぬから」という広島のモニュメントに刻まれた言葉の危うさ、あいまいさは、責任の在り処を覆い隠すことになってしまった。
 ヒロシマ、ナガサキ、オキナワは、戦後の日本の「核」の象徴だった。それにフクシマが加わった。首都圏からみるとこれらの都市は、遠く離れた周縁地域であり「地方」である。近代日本は、中央集権主義の政府が地方を支配してきた。それは地方の自己決定権を奪ってきた歴史でもある。近代国家の在り様について、いま問いを立てるという作業、これも第二の敗戦を復興させる条件の一つではないか。それは日本の農業が戦後の中央政治に翻弄されてきた歴史に問いを立てることにも符合する。

BM技術協会  事務局 大田 次郎

Author 事務局 : 2011年06月01日01:53

【AQUA231号】被曝食のすすめ

〜人間は「予定調和」から外れたもののようだ。


 家を建てた。還暦を過ぎ、野戦野営に疲れ果てたのである。家は地熱を利用するという床暖房とオール電化である。歳とって寒いのは敵わないし、電気・ガス・灯油と分けての支払いは億劫だからである。その最中に3・11が来た。唖然として「オール電化などという、なんて馬鹿なことをしたのだ」と呆然とした。
 七年前から麹を作っている。キララの季節の学校で味噌を仕込むので麹も自前で作りたかった。
 麹の師匠から「一〇〇回仕込め!」と言われ、一五キロの米を一〇〇回麹にした。その麹をどうする?味噌を仕込むしかないではないか。だから、平成一七年の五ヶ月、麹を仕込んでは味噌を仕込むことをひたすらやっていた。六トンあまりのその味噌も今年三月ようやく使い果たした。この間、カビについて、麹について、発酵について、私なりに少しは勉強し実験してきた。加工所は牧場の代表が「現金を持っていても仕様が無いだろう」と言うので当時の有り金を使い果たして建てた、老後の「遊び場」だと思っていた。

 誰も公式には言わないけれど、福島原発の状況は人類史上最悪の事態となっている。最悪というのは多くの死ぬ人が出るということである。死の分母は三〇〇〇万~四〇〇〇万だそうである。
 学者・知識人・政治家・官僚・マスコミの見解・意見・言説を数多く見たり聞いたり読んだりした。しかし、「それで、これからいったいどうすればいい?」という問いに答えるものは少ない。

 原発の事態が報道された時、「希望は、広島・長崎にあるのではないか」と密かに思った。本当らしい。要約すれば、
1、玄米を食べる。糠に含まれるビタミン・ミネラルを取り入れる。しかし、糠にアブシジンという毒素があって、これで胃などがヤラレる。一二時間水に浸して置くと「発芽状態」となり、この毒素が外れる。無農薬の米は手に入れにくいので、普通の玄米は、浸すとき昆布を入れると農薬を吸着してくれる。この島は二〇〇〇年前から「瑞穂の国」なのである。
2、塩は天然塩を使う。生物は海から陸に上がってヒトになった。海を身体に持っているのである。
3、味噌は毎日食べること。発酵の過程で生成される酵素を取り入れる。生状態が良い。酵素は熱に弱い。熱しすぎないこと。野菜に生味噌をつけて食べると良い。大腸は「第二の脳」とも言うという。
4、砂糖は控えること。白砂糖の入ったものは食べないこと。血液に一%の白砂糖溶液をかけたら赤血球が溶けてしまう、と言う。
5、牛乳は飲まなくてもよい。アメリカのハーバード大での一二年間、七万八〇〇〇人の婦人の骨密度の調査の結果、骨粗しょう症と牛乳が深く関係するという発表があった。牛乳はカルシウムとたんぱく質が共に多い。これが同じ食物のなかに入っていると、結合が強く、カルシウムもたんぱく質も全く動きがとれなくなるためと言う。牛乳は四つの胃を持った牛の赤ちゃんのためのものなのである。牛乳を利用するなら、発酵させて造るチーズやヨーグルトがあるではないか。

 これらは、長崎の爆心地から一・四キロメートルの地の病院で、秋月辰一郎医師の食実践により、七〇人の患者と医療従事者が被曝症にならなかった。という実話を基とした、「日本を放射線被爆から守る会」の「放射能汚染から命を守る最強の知恵」((株)コスモ21、発行)からである。表題から、ともすれば感じる奇矯な内容ではない。詳細を知りたい人は読んで欲しい。

 放射性物質は、太陽や風や水(海水)と同じで県境も国境も無い。現在、世界には四〇〇基以上の原発があるという。それが事故でなくとも微量に放射能を常時吐き出している。
 北の海に南の魚がいるという話を聞き、「二酸化炭素の過剰排出で温暖化し海も温まったのか」と思っていた。そうではない。「電気出力が一〇〇万キロワットの原発は熱出力が三〇〇万キロワットあり、その差の二〇〇万キロワットは、温排水として海に捨てられている。その量は、一秒間に七〇トン。海水を七℃上げている」(PKO法「雑則」を広める会、「未来に続く命のために原発はいらない」より)そうだ。海が温かくなるのは当たり前である。愚かなことに、私はそれを読み知ったのも今回初めてである。
 極論では無いと思う、厳密に言えば「逃げ場」など無いのである。だから、「反原発・脱原発」が大切なのだろう。
 徹底して「身体の自衛」をするべきだと思う。其れしかない。庶民は「棄民」されて来たのだ。ここまでされて、尚、「他人の頭に頼るな」と言いたい。「誰もなんともしてはくれないのだ」ということを、今回の原発は身に沁みて知らせてくれたではないか。そう自分に言い聞かせている。
 自然は「予定調和」するという。「独立し各自の内的法則によって自己発展する存在(単子)が、相互に対応し、世界の秩序が保たれる」という説らしい。自然には神様がいるのだろう。人間の世界もそうであればよいが、しかし、人間は自然ではなく人工物のようだ。そう考えれば、この七〇年の核利用の有様と結果がわかる気がする。子どもは「自然」だと言うけれど、自然から離れることを人は「成長」と言う。そしてそれを願う。いっそ老成してしまえば良いのである。それで「自然」に近くなるだろう。
 わが身を振り返らず、私は怒っている。年寄りは、子供たちや若い人たちが、殺されずに生き残る道を学び、考え、実践するしかない。今回は、「怒り」を持続させるべきだと、そう思う。
(白州郷牧場「白州だより」より転載)

山梨県 白州郷牧場・キララの学校 見田 由布子

Author 事務局 : 2011年06月01日01:51

 
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