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2007年11月01日

BMW技術の奥深さに触れて 【AQUA191号】

知識よりも知恵を大切にした技術
BMW技術の奥深さに触れて

 私たちは、あらゆる物が消費され、廃棄されていく時代にくらしている。しかし、人間の長い歴史から言えば、この循環が途切れた社会は、近代の高度経済成長のごく短い時間の中で起こっている。とすると何がこの変化をもたらしたのだろうか。

  「人間の限界を自分自身が認識できなくなった時から、人間は自分自身を破壊するようになった」とフランスの文化人類学者のレヴィ・ストロースは「遠近の回想」(みすず書房一九九一年)で述べている。人間は、生物界の中では特殊な生きものではないということを再考する時期が来ている。西欧のデカルト的な知性主義は、人間を自然の世界から切り離して特別なものにしてしまい、そのときから人間たちは自分たちを支えていた基盤を失い、自分自身を攻撃しはじめたのである。
 しかし、一方、アジアモンスーンに共通する農民たちは、自然に学び活かそうとして知恵を働かせて持続可能な技を作った。そして、かつての技術は、人間と自然との豊かな橋渡しとして存在したのである。自然界の豊穣な世界を深く理解し、その仕組みにある種の理想をいだきながら、しかし、自然とは完全には一体となれない自分たちの限界と悲しさを知って上品に行動していた。広大な自然界の仕組みと人々のくらしの間に微妙でゆるやかな間をとることで、自然と共に生きる人間の精神と技を作り出していたのだ。そこには、精神と身体が一体となった世界が存在する。私たちがここで再認識しなければならないのは、知識よりも知恵を大切にした時代が遙かに長かったことである。経済よりも物作りを大切にしていた時代の方がずっと長かったことである。スピードや効率性は、生物である人間にとってかならずしも幸福をもたらすものではなかったのである。
 今回、茨城BM自然塾の塾長であり、BM技術協会の常任理事である清水澄さんと「家庭排水の完全ゼロエミッション化」と「太陽光発電のある暮らしは地球環境と家計にやさしい田中発電所所長」(名刺にそう書いてあった)田中一作さんにお会いして、人間の知恵としての技の延長上に生態系を活かしたBMW技術があることを実感した。

現場からの発想を生かす
大いなる実験家 清水澄氏
 そのひとの印象は、強烈であった。エネルギーに満ちあふれた言葉の重みに驚くばかりである。しかも、現場からの発想を生かした本来の実験家である。表面的な実績を挙げようとしている人などとは、そもそも人種が異なっていることがすぐに分かった。茨城の酪農家、清水澄さんは水戸に近い湖沼のほとりに住んでおられるが、この沼にそそぐ涸沼川の上流には有名な御影石(花崗岩)の山地がある。その岩石をミネラルとして生かそうとしているのである。BMWの技術と水田を組み合わせて、再び地域水系の浄化力を水田に取り戻す実験を行っている。稲田の花崗岩に発する水系とその結実点としての涸沼そのものが大きな自然システムとして見えてくる。田んぼそのものを曝気してしまう装置も考えた実験田さえ持っているのには驚いた。BM技術協会顧問の長崎浩氏によると、BMW技術は、そのものが五〇%の技術で、あとは、地域が創意と工夫を積み重ねてそれぞれの地域に合った現実的なものとするという考えが基本にあるというが、実際に清水さんを見ているとその奥深い思想が見えてくる。往々にして研究者は、自分の技術を地域に委ねるだけの器量がない。だから、地域の伝統的な技術を遅れたものと否定する。そもそも農業そのものが地域に根ざした土着的な技術によって成り立っていたことを考えるならば、この技術を現実の中に展開する農家の土着技術を尊敬しなければ成立しない話だ。BMW技術は、農家そのものを活性化させる優れた技術だと感じた。

小さな田んぼの循環が地球の大きな循環の要を握っている=完全循環型の暮らしは可能か
田中一作氏の実験
 私は、これまでずっと考え続けていた。排出ゼロの完全循環型システムなんて本当に可能なのだろうか?これまで多くの一見、ゼロエミッションというまやかしのシステムを見てきたが、田中一作さんの住宅というより、暮らしそのものは本物だった。かねてからエコトイレは、莫大なお金がかかり、臭気が完全に消えないなどの問題がどうしても気になっていた。また、微生物が分解した後にそれらが畑や、田んぼで肥料として生かされない限り循環は途切れてしまっていることに重大な問題を抱えていると疑問を持っていた。
 それらの疑問が、田中さんの小さなひとつの家庭で行われている現実としての循環システムを垣間見ることで、すべてが解消したのだ。完全なるゼロエミッションは、むしろそれに留まるのではなく、積極的に循環型に変化し、完全な循環システムへと完成する。そんな究極の住宅なのである。
 田中さんの家では、トイレ、台所、洗濯などの家庭雑排水と生ゴミの大部分をBMW技術を使った水浄化プラントで処理をする。また、それだけでなくそれを田んぼや鶏の飲み水として循環して使うのである。しかもこの浄化システムは、田中さん夫妻と清水さんを始めとする地域のひとびとが作った手作りシステムだというのだから驚きである。田中さんの家のシステムは、清水さんを始めとする地域コミュニティーの復活を伴いながらその豊かさを確実に増している。
 田中さんの裏庭には田んぼがある。水質浄化システムで作った生物活性水を使って十坪ほどの餅米の田んぼを作っているのだ。家庭雑排水からできた生物活性水はいったん小さな水槽に入れられそこから田んぼに引き込まれている。家庭雑排水が流れ込む浄化槽には、モノアラガイやサカマキガイが大量についていて有機物を食べていた。見事に育った、有機の田んぼにはヒメゲンゴロウやミズカマキリなどの水生昆虫、フナやタモロコ、モツゴなどの魚影が多数見ることができた。なにより、稲の茎が太く、理想的な有機の姿をしていた。これが地元で採れた岩石と、地元の土着菌と家庭雑排水の有機物からできている循環の究極だとすれば、BM技術協会の礒田有治さんが言う現代の「肥溜め循環理論」だということが深く理解できる。この延長に現在では、逆に売電までしている太陽光発電システムや、地域のコミュニティーの復活に奔走する姿も重なって見えてくるのである。
 BM技術協会の方々の理想に、水源から河口まで、地域流域の土と水を再生するミクロコスモス構想が壮大な計画としてあるが、この考えの基本をなすのがこの小さな田んぼを含む小さな完全循環システムの発想から生まれているということを実感した。「小さな田んぼでの循環が地球の大きな循環の要をにぎっている」BMに関わった人々の最終的な到達点が地球の生態系の再生そのものだとすれば、それはもっとも健全な技術のひとつであることは確かである。

水田農業には、経済価値で計り知れない豊かさがある
 農村地域で適切な利潤を得ながら人間らしい豊かな生活を行うためには、地域の農家の生物多様性を生かした持続可能な技術がなければ成立しない。また、自然を直接相手にしている一次産業である農業は、それだけ自然の驚異から受けるリスクが高く、多くの自然災害の影響を受けやすいと同時に、健全な持続可能農業は、地域の景観を守り、生物多様性を育み、風景を作り出している。これらは、すべて経済効果には換算されることのできない外部経済と呼ばれるものであるが、このことに価値があるとすればそれを支えるシステムが必要となる。それが環境直接支払いの概念である。水田農業には、経済価値で計り知れない豊かさがある。これらを地域と都市住民が一緒になって支えるシステムが早急に必要なのである。BM技術協会のひとつのゴールと考えている水域全体の生態系の再生がこれを支える技術の一つであることは実感として理解できた。

人間もバクテリアも、その棲み場所
   つまり、生態系から見ることだな
・・・ヴェルナツキーは、地球の生命を「岩が分散したもの」と考えた
 わたしたちの生活は、農家の生活も、地域の生活も地球の大いなる物質循環の中にある。植物であれ、人間であれ水分を除いた乾燥組織の中に取り込まれている元素の量と、地殻の岩石中の元素量との間にはかなりの関係があることがわかっている。近年地質学者は、ロシアの科学者V・I・ヴェルナツキーの考えを受け入れるようになった。ヴェルナツキーは、地球の生命を「岩が分散したもの」と考えた最初の科学者である。当時は学説として科学者には受け入れられなかったが、つまり、無機質の岩石は数億年にわたって自らの配列を変えて、細菌へ、そして人間へとより複雑なかたちの生物に向かって自らが変化するものである。ということである。そして、人間もまたバクテリアによって土にそして、岩石に帰るのである。
 BMWの中に含まれるのは、特定の菌ではなく、原材料や菌体製造場所に棲む土壌微生物群が増えたものだという。調査分析では、通性嫌気性菌といって好気でも嫌気でも活動する菌が多いことが分かっている。通性嫌気性生物は、そのエネルギー獲得のため、酸素が存在する場合には好気的呼吸によってATPを生成するが、酸素がない場合においても発酵によりエネルギーを得られるように代謝を切り替えることのできる生物である。通常は細菌であるが、酸素の有無に関わりなく醗酵を行う菌(レンサ球菌,乳酸菌,酵母など)が含まれる.嫌気性か好気性かそれにこだわることはないとは言え、実際にBMWは曝気しているのであるから軽い好気性の状況にあるのは間違いない。酵素であれミネラルであれ、特定の種類のものを「農業資材」する考えをとらないというのがBMW技術の方針である。これが資材さえ多様であり、地域の土壌もそこに棲息する菌類も人間も多様であるとする考え方の基本が見えてくる。

生態系農法の低エントロピー生産技術のひとつであること
 BMWは生態系農法の低エントロピー生産技術のひとつであることと、そこに流れる地域に半分委ねるといった基本概念がアジアモンスーンの多様性を重視する概念とゆるやかに合致する。あとの半分の技術は、農家自身が現場に合った自分の工夫によって完成にすることが提唱されているのである。かえってこのような性格の技術だからこそ、農業そのものがおもしろくなってくる。もともと、農業は創造的で自由なものであったことを考えると、多くの借りものによって成り立った技術は、農家を解放せず、むしろ農業の豊かさを制限することになる。いわば民衆の技術になって始めて本来の農業技術としての豊さが見えてくるのである。農家から草取りの重労働を解放しようとして、かえって多くの環境問題を抱えることになった現代の除草剤の現状を考えてみれば、農業技術の持つ性格が見えてくる。地域の実態と共に改善される。こういった技術が、むしろ地域のコミュニティーの再生を行うことのできる技術である。
 地球環境の危機が叫ばれて、現代社会を支えてきた科学技術の在り方全般に反省が迫られている。先端技術がとめどない勢いで発展する一方で、時代や空間を遙かに超える生物多様性を生かした共生技術が、先住民族の知恵としてすでに完成している例は少なくない。江戸時代には日本全体にこうした地域に根ざした持続可能な共生技術が各地で完成の域に達していたことは、日本農書全集(全七六巻:農文協)を見れば明らかである。
 生命の進化から考えた生物学的共生概念で世界を考えたら現代の弱肉強食といったネオダーウイニズムとは、全くちがったものになっていただろうと、進化生態学者のエリザベット・サトリウス博士は指摘する。生物をその生態系において見るとき、そこには法則の多様性が本来つきまとうのである。生物の論理の共通性と多様性、一見合い反するこの両極端に対して節度を持って対応していきたいものである。
 今回の茨城の訪問では、あまりに当たり前のことを発見することができた。自分がいかに知らないかを実感した豊かな経験であったといまこの現実をかみしめている。


NPO法人 田んぼ 理事長 岩渕 成紀

Author 事務局 : 2007年11月01日 14:41

 
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