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2011年05月01日

【AQUA230号】東日本大震災 被災報告

BM技術協会会員産地の被災状況


 二〇一一年三月一一日に、日本の三陸沖を震源に発生したマグニチュード9の東日本大震災は、本震および余震による建造物の倒壊・地すべり・液状化現象・地盤沈下などの直接的な被害のほか、津波、火災、そして、福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質漏れや大規模停電などが発生し、東北地方と北茨城を中心とした甚大な一次被害のみならず、日本全国および世界に環境汚染や経済的な二次被害をもたらしています。
 BM技術協会と匠集団そらでは震災翌日より、東北から北関東にかけてのプラント会員を中心に連絡を取り、安否確認と被害状況確認を行ってきました。直接的被害が大きかったのは「茨城BM」と「宮城BM」。また、二次被害と言うべきか、沿岸部の飼料工場が津波の被害を大きく受け稼働停止、その後に起きた餌の確保の問題、停電による農場・牧場のインフラ関係の問題、そして余震、原発等と、未だ多くの問題を解決できずにいます。
 茨城BMの清水常任理事の話によると、家の屋根の瓦がほとんど落ちてしまい、玄関先には大きな亀裂が入ってしまった。停電は大型発電機をすぐに手当てし牧場インフラは回るようにしたものも、肝心のミルクを引き取りに来ない(来られない)ので、約一ヶ月ものあいだ、搾っては捨てるの毎日だった。米川さんの家でも同様に瓦が落ち、落ちた瓦が車を潰してしまったとのこと。家を取り囲む石塀はほとんどが倒壊、プラントはタンクに亀裂が入り、機能しなくなってしまった。田中さんの家では家が斜めに歪んでしまい、五トンタンクは活性水(処理水)で満タンだったが、タンクごと数センチずれてしまったとのこと。「地割れもひどく、隣の家は土台ごと割れていた。」(田中さん宅を訪れた(株)匠集団そら・星加の話)
 宮城BMの被害もかなり大きい。あいコープみやぎのセンターとは、最初なかなか連絡が取れなかったが、四日後の一五日に、あいコープみやぎ職員の高橋さんより連絡があった。
 以下は高橋さんの報告をまとめたもの。震災以降、停電・断水等ライフラインがまったくダメで、この間、下記のとおりの状態で業務を続けていました。一一日(金)地震後、各自避難することで精一杯でした。深夜、建物内を見回りましたが、セットセンター内の棚が倒壊し、稼動するかどうかも不明で(停電により暗くてよくわからない状態で)何もできませんでした。深夜までかかって職員全員の安否の確認をしたところ、海沿いをまわっていた二人の配送職員が津波に巻き込まれてしまったということで大変心配しましたが、何とかその二人も無事であることが分かり、職員全員の無事を確認。翌日からセットセンター内の倒壊した棚を起こし、入荷し崩れてしまった商品だけをとりあえず並べなおしました。停電が続いていたため、冷蔵品・冷凍品は冷蔵・冷凍庫を完全にふさぎ、とりあえずはそのままに、相談の結果、週明け後、組合員さんの安否確認を行いながら、すぐに食べられるもの、トイレットペーパーなどを無料で配布することにしました。さらに主だった職員で県内の生産者の安否確認を行いました。一四日より配送職員全員が二人一組で組合員のところを順番で回る。海側にはまったく近づくことができず、その方面の組合員さん・生産者の皆さんの安否がつかめない状態です。あいコープみやぎへは、協力関係にあるグリーンコープから毎日のように救援物資が送られ、組合員を中心に支援物資として配布されたとのこと。
 四月上旬には生産者の状況もわかってきたことと同時に、同月下旬からは組合員への通常供給も開始されたとのこと。
 あいコープの生産者であり、宮城BM会長である西塚理事の農場を伊藤副理事長と匠集団そら・星加、協会事務局の秋山で訪問したのは四月一四日。農場に着くと「ごくろうさまです!」と元気な声で奥様と一緒に迎えてくれた。表情からはかなりの疲労感がうかがえた。地震による地盤のずれと沈下などにより鶏舎は傾き、一部はジャッキで補強されていた。
 プラントがある場所の地面は大きく割れてその約半分が沈下していたが、幸いプラントは無事に稼働を続けることができていた。田んぼは一部が二〇センチほど落ちてしまっていて、給水用のポンプ含めラインもどこで壊れているかわからない状況でこれから田植えの時期までに修繕していくとのこと。このことは茨城BMの清水常任理事のところでも同じでした。
 また、宮城県は今年度の減反はなく、減反分を耕畜連携のために作付け予定していた飼料米を全部原料米に切りかえるとのこと(JA等の指示により)。野菜は夏の果菜類が中心だが、ほとんど無理ではないかと。「余震が何度も何度も来るし、震災からずっと体が揺れているような感じが抜けない。でも幸い命には問題ないしボチボチですが、また頑張るしかないです」と話していました。帰りの道中に仙台東部道路を走りながら見えた仙台市若林区周辺の津波の被害は、テレビの画面で見るものより、遥かに想像を絶するものであった。ちょっとした流れの差なのか、立地されている土地の高さの違いなのか、はっきりとはわからないが全く被害のなさそうな住宅地もあり、復興に向けての温度差が新聞等でささやかれていますが、こういうところにでているのかもしれないと実感した。
 秋田県のポークランド、山形県の米沢郷牧場では餌の問題とインフラの問題が生じたとのこと。畜産飼料の工場は主に太平洋側に集中しており、八戸や塩釜、茨城県の鹿島などの餌備蓄基地や工場が津波による被害で操業停止となり、餌の確保が難しい状況となってしまった。東日本のほとんどの畜産農家が同じ問題に直面したとのこと。ポークランド、米沢郷牧場では飼料米の比率を上げ、通常と違う配合で餌を供給しているとのこと。飼料米の配合率を上げたのは常盤養鶏も同じで、飼料米の配合を多くしたが、鶏に大きな影響は出ていないとのこと。給水・給餌、畜舎の換気扇など、電気を使用するものも停電により止まってしまった。緊急用の発電機で逃れたものも、計画停電等の問題を考えると今後どうしていくか考えて行かなければならない。ポークランドでは計画停電に備えてのシミュレーションを近々始めるとのこと。福島・千葉(一部)・茨城・群馬県では、牛乳をふくめた農産物の出荷停止措置または自粛要請が出された。予想もしていなかっただろう、原発からの放射能漏れによる被害。各産地・生産者の方達へのダメージは大きい。福島県のある生産者(BM技術協会会員)は昨年作った米なのに出荷を断られたとのこと。今後も大きな被害問題として尾を引きずっていくのではないでしょうか。原発事故による農業への放射能被害は日本全国広範囲に渡って様々な影響をもたらしている。これらのように、今回の震災による被害は計り知れないものと考えられます。そして復興には長い時間を要します。
 協会としては会員に向けて、地域の生協や自治体、各支援団体を通して長期に渡る被災地支援を呼び掛けるとともに、被害のあったBM会員への炊き出し等の支援をして行くことになった。四月二二日に生田理事長と椎名常任理事などが中心となり、あいコープみやぎにおいて炊き出しを行い、生産者・職員・組合員の方々が多数訪れたとのこと。今後もこのように炊き出しや、塩害による被害に対する勉強会などの開催をするなど引き続き支援を続けて行きます。
※会員の方で、被害状況、復興状況、問題点などの情報を提供してくださる方がいましたら、BM技術協会までご連絡いただければ幸いです。
BM技術協会 事務局 秋山 澄兄


 施設の被害は少なかったものの、地震直後は停電への対応が急務でした。自家発電機を回し換気、水、給餌のライフラインを確保。車載テレビで各地の津波を知り八戸も津波に襲われたのではと思いました。八戸は東日本最大の飼料基地で、ここが被災したらエサは届きません。
 震災発生時、在庫の配合飼料は三百トンありましたが、一日一二〇トン使用するため、二日分程度しかありません。
 電話も電気も遮断されていたため、連絡が取れず、一週間はエサが来ないと判断、種豚中心の給餌に切り替える事とし、配合飼料の給餌量を通常の三分の一の四〇トン、飼料米一日二〇トンで対応する事としました。
 飼料供給がこのまま不可能な場合、全頭餓死を覚悟し、可能な限り豚を出荷することにしました。
 このままでは社員の解雇・会社の倒産、最悪のシナリオが頭をよぎりました。
 仙台の石油精製所の被災も明らかになり、発電機停止による「ライフラインの寸断」、屠畜場での稼働停止、豚運搬車や社員の通勤車両の燃料不足など、想定していない二重三重の困難が襲いました。
 幸い停電は翌日夜に解除されましたが、豚舎は床暖房が使えず上からの電熱ヒーターのみ。エサが少ない為、豚の体温も低く、寒さに耐えていました。
 事実、配合飼料の供給は一週間無く、体のできていない若い母豚には流産が多発し、通常一・五キログラム後で生まれる子豚は一キログラムに満たず、母乳を飲めず死んだ子豚も多く出ました。母豚は自分の身を削って子豚に乳を与えていました。
 またエサが少ないと一気にエサに群がり、折り重なって死傷したり、強い豚だけが食べられる状態が続き、弱い豚は食べる事さえもしなくなりました。
 震災から一ヶ月が経つと、配合飼料は新潟、群馬、九州などから届くようになりましたが、確保できている量は一日八〇トンで、残り四〇トンは飼料米に頼る状況は変わりませんでした。飼料米で飢えをしのいでいなければ三分の二の豚は餓死した可能性も否めません(今年ポークランドでは、年間八〇〇トンの飼料米を飼料に添加する予定で、その一部を直接農家から買い上げ、保管・破砕・配合飼料への混合の実証実験を行うため、保管施設の整備・破砕機等の購入を行い、今年から飼料地域循環型の実験を行う予定で進めておりました。図らずも実証実験が実践に代わり、様々な課題や方向が見えたので、今後はこれに対処した仕組みを築き上げていきます。)
 非常措置で飼料も全国統一となり、抗生物質等入りのエサ使用も不可避となり、震災は飼料の海外依存への大きな警鐘だったと感じます。
 そして、もう一つ新たな弊害が発生しました。それは飼料が代わった事により糞の量の増加です。飼料形状が変わったことによる使用量の増に加え、未消化による糞の増加・飼料米の未消化などが発生し、通常時の約一・五倍に増加しました。堆肥施設に対しても、かなりの負荷をかけざる負えなかった事も報告します
 また、この被害の中で元気だったのがバイオベッドの豚。飢餓に強く、エサを減らしても立ち直りが早く、エサが代わったことによる消化不良も少なく、ダメージが非常に少ない。発酵熱による暖房効果で電気も不要で、われわれの取り組みの方向が正しいことが証明されました。

 被害も最小限に抑えられる事となりそうです。辛い思いをしましたが、震災を通じて「今までやってきたことがよかった」という確証を得ることができました。そして、思ったよりも肥育豚の立ち直りが早く、現在は通常ベース以上の出荷に戻り、増体も回復しました。これから繁殖豚の回復を見極めていきたいと思います。

 新農場(年間三万八〇〇〇頭出荷)の資金も借りられ、肥育舎はすべてバイオベッドにする予定です。回復には半年~一年かかると思いますが、必ず復活しますので応援お願いします。

経過
三月一一日(金)一四時四六分 東日本大震災発生(人・建物・設備・豚等には被害無し)停電 自家発電機により対応 稼働時間 約二九時間
三月一二日(土) 農場に在庫確認と制限給餌を指示→一二日時点 飼料在庫量 約三〇〇トン(二・五日分)
二〇時 停電復帰 
三月一五日(火)~三月一九日 配合飼料四〇トン+飼料米二一トン(三四%)必要量の五一%(一日あたり)
省エネの指示(①農場床暖房を停止指示②社員通勤乗り合わせ開始③場内備蓄燃料(軽油・灯油)使用不可④電気)
八戸工場 自家発電機により試験運転開始
在庫種豚用飼料供給開始 ~二五日までは、製造済み在庫入荷(六〇四トン)
三月二一日(月)~二六日(金) 配合飼料七四・五トン+飼料米二四〇トン(二四%)必要量の八二%(一日あたり)
三月二七日(土)~三一日(木) 配合飼料七七・七トン+飼料米一六・八トン(一七%) 必要量の 八一%(一日あたり)
四月一日(金)~一七日 配合飼料八一・四トン+飼料米二三トン(二二・六%) 必要量の一〇〇%(一日あたり)
四月一八日~三〇日 配合飼料一四〇・一トン+飼料米〇トン(〇%)必要量の 一〇〇%(一日あたり)
五月二日~ 全量指定配合飼料供給開始
秋田県 ポークランドグループ代表 豊下 勝彦

 三月一一日の震災で直接的被害はありませんでしたが、宮城県側にある三農場が停電および断水となり、発電機を使用し給餌・給水を行いました。それは一六日には復旧したものの、鶏の飼育に必要な飼料・燃料(ガス等)確保が大変困難な状況が続きました。
 特に今回の震災で飼料工場(宮城県仙台市宮城野区・石巻市)の被災が甚大であり、通常給餌している指定配合飼料(非遺伝子組み換え)の入手ができないのではないかということで、飼育している鶏の生存維持(鶏を殺さないこと)を最優先とし、指定配合飼料在庫が一三日分程度しかないので、飼料米を五〇%配合・増量し日延べさせることを方針化しました。
 翌々日には、一社の飼料メーカーと連絡が取れたものの、実際に飼料が入ったのは一七日で、緊急飼料での対応が可能となりました。内容は無薬ですが、とうもろこし・大豆油かすについては遺伝子組み換え不分別となり、飼料工場の復旧までの期間に限り、やむを得ない対応となってしまいました。他メーカーとは連絡がなかなか取れず、連絡が取れても数量はもちろん、「無薬」は難しいとのことでしたが、無薬飼料は最低限である旨を伝え、可能となってから手当てするようにしました。
 飼料米(飼料自給率向上・地域循環農業)に取り組んでいて、このような対応が可能となり、落ち着いて、冷静な判断ができたものと考えております。結果、震災以降、飼料米の配合割合を高めたのは一週間程だけで、飼料が不足する・切れるという状況はなく、エサ不足により一羽も鶏を殺さずに済んでおります。飼料米の取り組みは、自給率を高めることはもちろん、このようなリスク分散・回避にも必要不可欠のものと思います。
 震災後の生産現場では、飼料銘柄が複数で一定でないことの対応に加え、燃料、特に熱源のガス使用・残量に留意し、機械設備・車両のガソリン・軽油の使い回し、処理場の稼働状況や孵化場の被災での入雛変更に合わせざるを得ないイレギュラー等々、毎日細心に亘る対応を強いられました。そのような中で、四月いっぱい夕方スタッフ一同が会しクローズドミーティングを行い、その日の作業の点検、翌日の方針の確認・共有を行ってきました。「三月一一日」で、少なくとも東日本は変わった、変わらざるを得ない現実に対処してきた思いがあります。
 また、鶏肉製品の保管・出庫業務を委託しています冷凍保管庫(仙台市若林区)が停電・断水と荷崩れの被害があり、物流も停滞し、結果的に欠品・企画変更等を発生させてしまい、消費者の皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。地震の大きさが未曾有のもので、四月七日の強い余震も加わり、落下による外箱・製品の損傷も激しく、かなりの損害を出しております。
 生産者団体である私たちは、継続できる農業・地域の未来に向け、農畜産物を作り続けます。それが、今回の震災ならびに原発事故で被災された皆様に対する第一義的な支援と考えております。
 その中で放射性物質の拡散への恐れとの戦いが必然化しております。生産活動を続ける上で、私たち自身も地域・農地の汚染レベルにはもちろん、生産された農畜産物の数値にも注視しております。当然全く汚染されていないのが理想ですが、基本的には状況を把握しながら生産し、情報を共有化しながら、消費者の皆様にも落ち着いた対応をお願いすることになります。「知って作る」「知って食べる」ことに尽きると考えております。
 未だ震災の影響が尾を引き、飼料価格の値上げ動向もありますが、三月一一日以降、生産環境が一定復旧するまでの間、皆で考え、創意工夫してきたことを共有・教訓化し、今後の生産活動に繫げていけるよう、グループ一丸となって生産に勤しんでいきます。
山形県 株式会社 米沢郷牧場 事業部 阿部 均


 東日本大震災茨城では
 二〇一一年三月一一日午後二時四六分、この一時間前から足利工業大学の出井先生と水撃ポンプ(ラムポンプ)で河川から水圧を利用して水を汲み上げ、小型発電機設置と水田に利用する実験計画の話し合いをしていた。その時テーブルのお茶椀がカタカタと動きだした。「あー地震だ!」最初は今まで体験した揺れだったのですぐ収まるだろうと思った直後強い揺れが来た。出井先生は庭に飛び出した。だんだん強くなる揺れに耐えかねて庭に出た瞬間、立って歩くことが出来ず、先生とモチノキに掴まり母屋を振り返った瞬間、あの震度6が来て屋根の鬼瓦(約六〇キロ)が三個に割れて飛び散り下り瓦が轟音を立て飛び散ってきた。逃げるのがあと五~六秒遅れたら瓦の破片で直撃されたと思うと、ぞっとした。この震源地は何所だろう、他の所はどうなっているのか、連絡しようにも電話は通じない、テレビも電気が来ていない。出井先生は埼玉県所沢に帰る道路状況はどうか確認が出来ずにいたが自宅が心配になり帰って行った。我が家では今から始まる搾乳は電気が来ないと出来ない。右往左往している内に時間が過ぎ、パニック状態になっていた。まずリース会社に行き大型発電機を借りたことが正解だった。他の牧場では、夜の搾乳ができず、翌日の昼ころまでかかり大変な時間を過した。またライフラインが破壊され一〇日間も復旧せず不自由な日々が続いた。この時ほど水の大切さを感じたことはなかった。

 地震状況がわかる
 三日後に停電が回復し、テレビを見て東北地方が震源でM9と大津波で瓦礫の山となり多くの犠牲者が出ている映像や、友人が福島県に親類の安否確認に行ってきた話しは、あの震災現場は説明の仕様がない程の悲惨な状況だ。地震、津波、原発事故と的確な情報が確認出来る様になった。茨城でも北茨城から海岸線が津波や液状化で被害を受け、大洗町漁港から津波にやられた食用蛸が約七トン雑魚三トン近くが持ち込まれ発酵堆肥に一〇日間で仕上げた。茨城BMの会員も人命に架かる事故はなく住宅の破損ですんでいると連絡がとれた。米川君、田中さん宅も母屋や石塀、墓石は面影がないほど破壊された。私の耕作水田脇の河川堤防が至るところに亀裂がはいり、大雨があれば決壊する状態となっている。また、原発事故で我が家では牛乳が一千万円以上廃棄となり、いまだに半額補償でしか解決していない。東京電力の人災は会社の利益追求型経営がもたらした上に、政府の対応の拙さが被災者をいまだに苦しめ、先が見えない日々が続いている。

 被災地復興支援にBM技術を
 被災地農業の復興は長期にわたり、苦労が予想されます。我が国の今後の食料問題を考えるとき、東北の穀倉地帯は何としても再生を図らなくてはならないと思う。生産不能が続けば食料の外国依存が増し、難問を抱える地元の農地は不毛地帯となりかねまい。今回の震災は全国至る所に様々な弊害をもたらしている。その最たる原因は、原発事故である。今だに解決策が見つからない事故処理とは、東電に原発取り扱いの技術があったのか呆れるばかりだ。これから何年続くかわからない放射能汚染には補償金を支払う、また東電が資金難になれば国が支払うと言っても結局は、電気料の値上げと政府の増税にしようとしている。これでは蛸が自分の足を食べて生きるようなものだ。どこも、かしこも、無能無策の者ばかりで頼れるところなしだ。
 お互い今は経済的落ち込みで苦しい日々となっているが自己責任で協力体制を考えるべきと思う。
 BM技術協会も今や全国から海外まで組織も拡大し、技術情報で豊かさを得ることも出来ている。そこでBM会員の組織を活用し定期的支援策を企画してはどうでしょうか。
 地震、津波の他に人災による原発事故の回復は何年続くかわからないなかで、政府や東京電力から納得を得る解決策など早急に出そうにもない。BM関係者で多くの情報収集と調査研究を行うことが今求められている。農業現場に豊富にある再生エネルギーの活用など、バクテリアや植物等を利用した放射性物質除去など数多くの実験を行うべきと考える。一刻も早く明るい見通しが立つようBM技術協会の役割をはたすべきだ。
茨城県 茨城BM自然塾 塾長 清水 澄


 この間、皆様から寄せられたご支援・お見舞いにつきまして感謝申し上げます。特に生田理事長はじめ、米沢郷牧場、白州郷牧場、事務局の皆さんが来仙し、被災者や生協組合員、役職員にお好み焼きの炊き出しまでしていただき、誠に有難うございました。(次ページ参照)
 三月一一日の地震当日は、強い揺れで事務所のなかは錯乱状態になりましたが建物の損壊は免れることが出来ました。沿岸部を配送中の二台のトラックが戻らず、状況が全くつかめないなか、一夜明けるとラジオで事務所から十数キロの沿岸部では数百の死体が散乱していることが報じられ深刻な事態が起きていることが認識出来た状態でした。
 トラックは流されましたが幸いに二名の職員は徒歩で戻り、生協の直接的な被害は少ないものでした。一一日(金)に納品された物資を月曜日からお見舞いとして配りながら組合員の安否確認を始めました。燃量が手に入らず多くは回れませんでしたが石巻等の沿岸部は全てがなぎ倒され、空襲にあった街を見ているようで息をのむ惨状でした。
 皆様のご支援で生協の供給事業の面は六月に入りほぼ九割方回復出来ました。仙台市の住宅街の被害が比較的少なく、手間取っていたライフラインの復興とともに組合員の生活も元に戻ってきたことにもよるものと思われます。
 しかし、沿岸部の水産や水産加工業、農業はほとんど手つかずのままという状態が続いています。写真は、七郷みつば会の会員さんの一〇〇日経過した田んぼの現在の状況です。流されてきた瓦礫がそのまま残されており、用水路が破壊されて水がまだ一切来ない状態のままおかれています。七郷みつば会は私達の一番近い生産者グループでお米、野菜、果菜の産直を二十数年に渡って行ってきた生産者です。沿岸部からは4キロ程でしたが家屋は1メートル以上浸水し、田んぼと畑は全て押し流されてしまいました。
 これからは、壊滅的な被害を受けた沿岸部の一次産業をどう復興させるかが大きな課題になっています。行政、農協、漁協も夫々に復興計画を立て始めています。特徴的なことは、大規模を目指し、株式資本を導入し、生産の場と住居の場を分離した生産団地を作ろうというものです。漁協は、少し異なり、これまでの小生産の権益を守ろうとして行政と対立しています。
 「復興には四、五年かかる。土地を集約し大規模化をはかるからそれまで待て」という復興案に多くの生産者は止めざるをえないと思い始めています。それが手なのかと思われる節もあります。確かに、これまでのように機械を全て取り揃えた小規模農業、兼業農業は成立出来ないことは了解になっています。集団化も必要であることも了解されています。
 問題は、集落のなかから集落の声を集めて復興計画を作り、実行していく担い手が集まり易い環境をつくれるかどうかになります。
 「お上の配分が終わるまで待っていろ」では、担い手はなくなります。私達は、七郷みつば会の復興計画を支援し、具体的な活動を開始したいと思っています。田んぼは直ぐには手がつけられない状態なので畑から始めます。泥の撤去はほぼ終了していますのでハウスの再建、客土、活性水利用、自然エネルギーの導入等々を行い、地域の担い手の存在を明らかにして、地域の声を反映した集団化による復興計画を支援していきます。皆様から頂いた義援金も第一次産業の復興に使わせて頂きたいと思っております。
 なお、福島原発の事故も危険な状態が続いています。日々、放射能の垂れ流しが続いているなか、組合員、地域住民、農家の不安は強まっています。脱原発を目指した社会づくりもこれからの私達の大きな課題になっています。
宮城県 あいコープみやぎ 小野瀬 裕義

 四月二二日(金)に、宮城県仙台市宮城野区の「あいコープみやぎ」本部・センター駐車場において、BM技術協会生田理事長を中心に、米沢郷牧場グループ、白州郷牧場、黒富士農場のメンバーによる炊き出しが行われました。約三〇〇枚のお好み焼きと、甘酒、漬け物などを、あいコープみやぎ組合員、生協職員、生産者の方々に食べていただきました。
 生田理事長は、今後もこのような炊き出しを継続してやっていきたい、と語っています。

 会津の原発被害
 前夜に五センチほどの雪が降ったまだ寒い日の巨大地震。幸い会津はほとんど地震被害がなく、停電もなかったため、CMの消えたテレビ放送を見続けた。もし停電していたら、育苗中のトマト、ナスなどは全滅だった。
 地震被害の全体像が不明な中、十三日に福島第一原発一号機、十五日に三号機が水素爆発し、原発関連ニュースが毎日マスコミに取り上げられることになった。
 冬期間は毎日陸から海(太平洋)に向かって風が吹き続ける。原発で何が起こったのかわからないころで、早めに収束すれば、被害はたいしたことはない。風向きも変わらないでほしい。そう思い、天気予報の風向きを毎日チェックしていた。
 しかし、政府十九日発表の「サンプル調査で暫定基準値超す放射性物質検出」が発端となり、風評被害が始まった。約一週間後、地元のスーパーチェーン店から電話がかかってきた。「申し訳ありませんが、地元野菜の取り扱いをすべて見合わせたいのでよろしくお願いします」と言う。夏に少し出しているだけなのにと思ったが、とにかく全生産者に連絡しているようだった。
 野菜、牛乳ですべての関係者が混乱している中、今度は米に飛び火した。連日「福島原発」という言葉がテレビ、新聞に出るので、「福島県産」と聞いただけで拒否反応を起こす人が増えていた。事故前に収穫、倉庫保管している米でも不安らしい。取引先から検査要請があったので検査してもらったが、放射性物質は「未検出」という結果だった。
 結果が出ても、聞く耳を持たない人はいる。理解してくれるところ、支援してくれるところを探すしかない。各生産者に声をかけ、思いつくところに当たってもらうことにした。しばらくして、去年の米なら問題ないので欲しい、という相手が出始めた。何とか在庫を抱えず済みそうなメドが立ったのは六月中旬になってからだ。
 この間、より大きな問題が進行していた。栽培中の今年の米の動向だ。量の違いはあれ、すでに三月の水素爆発後にきわめて広範囲にヨウ素、セシウムが落ちてしまっている。静岡県のお茶でもセシウムが検出されるほど広い。狭い範囲でも落ち方やその後の流れ方などでばらつきがある。
 今年は行政、関係機関だけでなく、農家独自の検査データも必要になる。土壌は行政等のサンプル調査データを利用する場合でも、収穫物は生産者のデータが必要になると思い、検査を呼びかけてきた。町内の農家グループが行った最近の検査では、キャベツ、タマネギ、ほうれん草、キュウリ、ニラ等ですべて未検出だった。
 土壌検査結果(ちなみに私の田んぼはヨウ素未検出。セシウム一三四、セシウム一三七、計一七七ベクレル)や収穫した米の検査結果を見て、これはオーケー、これは基準オーバーだからダメとか判定するなら納得できる。しかし、そうはいかない取引先もある。当然のことながら、福島県産米はいらないという消費者の声が要因らしい。
 現在、会津の全市町村に浜通りから一時避難されている。それぞれ行政単位での受け入れで、私の住む会津美里町は楢葉町となっている。二千人ほど来られているようで、小規模ながら仮設住宅も建設中だ。原発がいつ収束し、いつ戻れるのか。戻れたとしても農業はできるのか。
 それに比べれば風評被害はまだまだ、とは言っていられない。こちらまでダメになっては支援も何もなくなってしまう。現在進行中の被害をどう克服するかが今年の最大の課題になった。人災である原発事故の分析、責任追及は他でやってもらうしかない。
福島県 会津うまいもの塾佐藤 邦夫

 トキワ養鶏グループの、震災における被害状況

1.農事組合法人トキワ養鶏
 三月一一日午後二時四六分、地震発生。直後に停電発生。その後断水も確認。鶏舎倒壊の確認をしたが、特になし。一二日午後に停電は復旧。それに伴い断水も復旧。
 一四日午前に日和産業株式会社八戸工場(飼料工場、以下日和)に連絡。飼料製造、原料納入の見込みがなし。その後、一六日に在庫確認後、能登谷組合長(当時:専務)より、全飼料に飼料米二〇%を給与するようにとの指示が出たので、同日午後より、鶏舎担当者が飼料米二〇%を混ぜ合わせて鶏に給与。
 三月一七日午前に日和より飼料一六トンが納入。飼料米二〇%を混ぜ合わせた後に飼料タンクに入れた。また、三月二一日夜に長野県の会田養鶏さんより、飼料一〇トンをもらう。(ここまではNONGMO)
 三月二五日より日和のタンク在庫がなくなったので、GMOの飼料に飼料米二〇%を混ぜ合わせた後に飼料タンクに入れ、給与開始。四月一八日まで続く。その後低たんぱくの飼料(名称:トキワ15B、NONGMO)の製造が再開され、現在はこの一種類で対応している。

2.有限会社トキワ農場
 三月一一日午後二時四六分地震発生。直後に停電、断水発生。鶏舎、集卵場の点検をしたが給餌機が停止線からずれていた以外に特に被害はなし。断水は一一日一七時に一度復旧したが、一二日朝に再び断水(発電機で送水していたが、発電機のパワー不足により)その後一二日夜八時に停電復旧。
 一四日に飼料の在庫確認。その後日和に連絡。津波警報が継続中のため、工場にいけないため、状況がわからないとのこと。
 一六日より日和と北日本くみあい飼料より飼料入荷。それと同時に一部の鶏舎で淘汰開始(約四八〇〇羽)。
 一七日より全群に飼料米一〇%を給与開始。
 二二日よりGMOの飼料が入荷。給与開始。その後四月一九日にNONGMOの飼料が入荷。給与開始。

3.トキワ養鶏十和田育成センター
 三月一一日午後二時四六分地震発生。直後に停電、断水発生。直後に場内で使っている発電機を使い断水は復旧。鶏舎で使っているブロックが一部ふくらんでいた。また、地下タンクで使っている灯油から漏れがあった。停電は十三日朝五時三〇分に復旧。場内の軽油は全て使った。
 三月一八、一九、二八日に日和より入荷(在庫分)。不足分は飼料米で対応。その後四月一日より日和で大雛飼料と幼雛代用飼料製造開始、給与。

4.農事組合法人薬師酪農生産組合
 三月一一日午後二時四六分地震発生。直後に停電、断水発生。停電が復旧したのは三日後。その間、飼料は在庫分を手動で出し、水も手動で出した。一七日より名古屋から飼料を購入した。その後三月二五日より日和から飼料を購入。(日和在庫分から出荷。)
 四月六日に飼料米を給与開始。

5.農事組合法人八峰園
 三月一一日午後二時四六分地震発生。全員倉庫より避難。直後に停電。揺れがおさまったところで倉庫内確認後、作業再開。
一二日の作業は停電により選果機が稼動できないため、袋詰めを中心に作業をした。また、場内以外に保管しているりんごの保管状況と停電の影響確認。メーカーに確認したところ、密閉状況で四〜五日は問題ないとのこと。
 一三日以降は停電復旧により通常作業に戻る。

6.トキワ養鶏食品加工部
 三月一一日午後二時四六分地震発生。直後に停電。一二日午後四時に復旧した。復旧直前にブレーカーを落として不慮の事故に対応。建物には特に被害はなし。
青森県 トキワ養鶏グループ 唐牛 冬仁

Author 事務局 : 2011年05月01日 23:38

 
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