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2011年10月01日

【AQUA235号】「新しい物語を作る」東日本大震災と科学技術

 3・11の大地震と津波、そして原発事故以降、日本は根底からの大転換を迫られています。昨年、設立二〇周年を迎えたBM技術協会ですが、この未知の領域にいったいどのように足を踏み入れて行けばいいのか、BM技術協会顧問の長崎浩先生にご寄稿をお願いしました。
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BM技術協会顧問 長崎 浩

 東日本大震災は二万人余の犠牲者を生んだ。地震と津波による被災者、さらに福島原子力発電所の事故の被曝者を加えれば、影響がこの数十倍に及ぶことはいうまでもない。これら人的被害だけでも、実に第二次世界大戦以降では初めての事態である。過ぐる敗戦はわが国にたくさんの物語を生んだ。同じように、東日本大震災は新しい物語を生みだすであろうし、そうすべきである。

原発はすでに政治問題
 原発問題は、今日すでに十分に政治問題になっている。原発は安全か危険かだけでなく、この対立を具体的に政治的な対立として構成して、国民に選択を迫ることが必要である。それがいまだに見えていない。
 従来(一九八〇年代以降)、片方は原発に事故などありえないと抗弁し、他方は原発の危険性と放射能被害の恐ろしさを言い募って来た。二者択一的なこの議論の不毛性が指摘され、「極左と極右とのシャドーボクシング」と揶揄されてもきたのである。もとより、喧嘩両成敗は成り立たない。片方が圧倒的な権力を握っており、天秤は大きく右に傾いたままであった。その結果が原発列島の成立であり、今回の事故である。未曾有の事故によって天秤に揺れ戻しが起きている現在、この機会に乗じてかのシャドーボクシングを政治選択の実戦に転じることができるはずである。喧嘩の仕方と言説を変えねばならない。
 原発安全を看板にした権力は、この看板の影に政治問題を隠蔽してきたのである。いいかえれば、原発の選択は国益であると主張することを怠ってきた。国益とはかつては科学立国のことであり、その後はエネルギー政策の問題である。経済成長と国際競争のために、エネルギーとして原発を選択することこそが国益になる。科学技術としての原発の危険性を認めたうえで、確率的リスク論に基づいて、原発の便益(国益)がコストに勝ることを論証し説得することが求められてきた。このような提案があって初めて、原発問題は国益、つまりは政治選択の問題として国民に投げかけられたはずである。シャドーボクシングに代わる論争が可能になり、原発を巡る言説のレベルの向上も期待できたかもしれない。原発権力はこれを怠ってきた。
 そもそも、わが国ではイデオロギー対立の陰で政治を隠蔽する政治が続けられてきた。原発問題は、こうした戦後日本の権力の仕来たりを象徴する。仕来たりが通用したその分、反対派の言動もシャドーボクシングを強いられて、結果として権力の延命を助けてきた。今回もまた、東日本大震災と原発事故は世論を「安全」問題一色に染め上げ、安全は原発権力の延命のスローガンともなっている。危険か安全かは政治問題にならず、かえって対立を隠蔽している。ここでシャドーボクシングをさらに踊るのでなく、国民的不安を新しい対立の構図にして見せることができるかどうか。原発問題はいまや政治問題だというのも、敗戦以降の政治の振る舞い方を変えることの焦点が、いまここにあるということである。われわれは新しい物語を作ることができるだろうか。
       
横殴りに襲来した天災という「自然」
 東日本大震災は天災である。天災が戦後の日本社会にたいして横殴りに襲来したのである。天災が神の下す懲罰でないとしたら、これはどこから来たのか。「天災は忘れたころにやって来る」というが、われわれは何を忘れていたのか。忘れていたのは「自然」であり、さらに絞っていえば「地球」という自然の存在である。このことが、つまり突如として「自然」が露呈したことが、科学技術(テクノロジー)の問題を改めて浮上させた。
 もともと、人類の定義に属する技術という行為は、自然に触れ自然を利用するものでありながら、人間を自然から遠ざける。忘れさせる。自然を人間の似姿に変え(加工と制作)、かく変えることのできた自然を利用してきたのである。道具の使用がすでに手と物とを媒介して隔てる。道具はチンパンジーなども使うが、焚火で調理するのは人類だけだという。肉を焼いて食う。調理とは文字通り生の自然を人間化すること、この意味で技術である。その後、いわゆる「自然の猛威」を克服するための技術の長い歴史が始まる。古来、治水は最先端技術であり、権力も政治もこれなしにはやっていけないようになった。
 「自然の猛威」とは技術の媒介を逸脱して、いわば生のままで自然が氾濫することである。自然が技術にたいして叛乱することだ。この自然を「生の自然」、あるいは「大文字の自然」と呼ぼう。そして、生のままの自然を征服し忘却することが技術の務めとなった。知は力だとして、この力と合体した技術を、とくに科学技術(テクノロジー)と呼ぶ。調理する技術に比べて、科学技術は格段に人間を自然から遠ざける。自然を制御してその力を望ましい水路に導いて利用する。逆説的ながら、自然を忘れさせることができるということが、科学技術のイデオロギーとなった。科学が便益に転化する。第二次大戦後になって、このような科学技術が猛烈な勢いで世界を覆って行く。現代文明は、かくして世界を人工物で覆い尽くすことになった。最近の情報技術になればなおのこと、もう誰も生の自然に触れているなどと思いもしない。近代医学にもとづく医療技術も、身体という生の自然(ミクロコスモス)から人間を遠ざける。「病気を診て病人を診ない」のは現代医療技術の本性である。そして、原子力技術はそもそも地球上には存在しない核反応を作りだして制御しようとするのであり、地球という自然そのものが姿をくらましている。
   
忘却の眠りを打つ大文字の自然
 今回の天災こそは、現代科学技術文明をこのような忘却の眠りから呼び覚ましたのである。文字通りに、生の自然、大文字の自然が横殴りにこの社会を襲ったのである。津波が海の舌を延べるようにして人間を襲う映像は圧倒的であった。科学技術というシステムが征服したはずの地球という自然を、目の当たりにすることになった。大文字の自然がにわかに姿を現した。古い(中世の)日本語の使い方では、自然(おのずから)とは「万が一、図らずも」ということであった。「死は自然のこと」というとき、これは現在のように自然死のことではなかった。この意味で、天災は自然に(忘れたころに)やって来るのである。まだしも人為を超えた自然世界に取り囲まれていた中世とは違う。人為を超えるものを忘れ去った科学技術の世の中に、生の自然が不意に露出した。原子炉の冷却のために必死の覚悟で消火に当たる光景が出現した。かつても調理の後には水をかけて火を消した。そのような技術レベルに、つまり原始力に、原子力は席を譲ずらざるをえなかった。そこに露呈したのも生の自然であり、しかも焚き火と違って今後一〇万年も消えることのない原子の火なのだった。

地球異変と経済成長思想
 厄介なことに、今日では自然の(おのずからな)露出は天災だけではない。地球温暖化と気象異常という現実がある。これは地球が歴史的に作りだし、人類の歴史ではおおむね安定的に機能してきた「地球システム」のアノマリーである。気象異常は独特の地政学に従って、今後とも世界の食糧供給を攪乱し、とりわけ貧困地帯を襲うであろう。科学技術文明といえども、食糧と水は地球の産物、つまり生の自然であるほかはない。商品取引の影に身をかくしてきた自然が、ここでも大きな災害を伴って露呈していくだろう。化石燃料などの資源価格の高騰は常態となり、ここにも地球という名の自然が科学技術の前に立ちはだかるはずである。そして、異常気象も食料と資源の将来も、地球に住み続ける限り、科学技術はこれを「征服」することはできないし、その到来を(原理的に)予測することもできない。地震と津波の場合と同じように、これら地球異変は自然の(おのずからな)現象、地球システムという自然の露出なのである。
 科学技術とは今日では個々の道具のことではない。これは多くのサブシステムからなる一つの世界システムである。それというのも、第二次大戦後の科学技術の爆発は、グローバルな経済成長思想と相携えて進行したことだからだ。経済成長の単線列車はいまでは地球の隅々にまで運行しており、列車に乗り遅れないことがどこでも経済運営の理念となっている。列車は科学技術によって、科学技術とともに走るのである。異常気象も食糧資源問題も、この単線列車が遭遇し露呈させる地球という自然であるに違いない。地球という限りある容れ物は、もうこれ以上の資源利用と廃棄物の蓄積に耐えられない、といわれてきたことである。それなのに、グローバルな経済成長と科学技術システムの膨張は、とどまることを知らない。これが人為による、もう一つの「天災」をもたらすであろう。原発もまた経済成長の最先端を走るテクノロジーであった。
 グローバルな経済成長という思想の理念は、かの先富論(トリクルダウン滴下論)である。富めるものから先に富む、やがて富は滴り落ちるようにして世界に行き渡っていくであろう。それでも世の中に格差は残るであろうが、貧困はあってはならないというのである。仮に将来この理念が実現に近づくとしても、その過度期の現状では国の内外にまだら状に貧困が残る。グローバリゼーションのこれが地政学である。この地政学を「天災」が襲って、貧困地帯にとりわけ大きな被害をもたらし続けるだろう。ということは、地球からやってくる「天災」は、成長思想の理念の実現を阻むであろう。理念は幻想にすぎない。
    
放射性廃棄物
 異常気象をもたらすのは、科学技術文明の廃棄物(二酸化炭素などの温室効果ガス)による地球温暖化である。気象システム(地球システムを構成するサブシステム)の人為的な攪乱である。この仮定の下に地球温暖化が予測され、対策が講じられている。廃棄物は科学技術文明とともに不可避的に増大する。このうち、地球の生ゴミというべき生物系廃棄物については、地球システムはまだ処理とリサイクルの機能(地球生態系)を維持している。しかし、地球生態系が処理できない工業系の廃棄物が増え続けている。
 こうした中でも、原子力産業からの廃棄物は特別の性格を持っている。放射性廃棄物であり、処理を誤れば放射能被害をばらまくことになる。そして、科学技術はこの廃棄物を処理することは(原理的に)できないのである。長期にわたり厳重な管理の下に放射能の自然消滅を待つほかはない。自らの廃棄物を処理する原理を持たないテクノロジーは、科学技術と呼ぶことはできない。原発は科学技術ではない。
 フィンランドには、地下深くの岩盤に設けた高レベル放射性廃棄物の最終処理場(オンカロ)がある。二〇一〇年から一〇〇年間使用して、その後は密閉する予定であり、一〇万年間の安全を見込んでいるという。しかし、一〇万年後の人類社会とはいかなるものか。この施設の記録を保存するとすれば、これをもとにして人類は被害から身を守れるかもしれない。逆に、放射能を悪用するかもしれない。だが、記録を施設の封鎖時に闇に葬っても、一〇万年後の人類がたまたまこれを掘り当てるかもしれない。人類が科学技術を忘れるまでに退化しているとしても、(ピラミッドのころのように)地面に穴ぐらいは掘れると予想されるからだ。記録は保存すべきか廃棄すべきか。フィンランドの政府、専門家、事業者が真顔で議論を戦わせている(マイケル・マドセン監督「一〇〇、〇〇〇年後の安全」、二〇〇九年)。

科学技術文明の廃棄物
 原発の廃棄物はかように特異なものであるが、しかし問題を持つ廃棄物はこれだけとはいえない。二酸化炭素はそれ自体毒物ではない。光合成に使われることを別にしても、化石燃料に支えられた科学技術文明の定義に属するような廃棄物である。これが大気に蓄積して異常気象をもたらすとしても、排出を止めることは科学技術文明の自己否定になる。加えて、一〇年前に大騒ぎになった環境ホルモン問題がある。工業系廃棄物を構成する化学物質の大半は、もともと地球に存在したものでなく化学工業が作りだしたものである。このうち六七種の内分泌系攪乱化学物質が特定され、ダイオキシンなどいくつかに規制がかけられるようになった。だが、環境ホルモンがこれらに限られるという保証はない。環境ホルモンだけでなく、発がんリスクを持つ化学物質についても同様である。科学技術はこれまでに万を超える種類の新奇な化学物質を地球全体にばらまいてきたのである。ばらまいたものをかき集めること、一つひとつ動物実験にもとづいてリスクを評価すること、コスト便益評価にもとづいて規制することが求められている。だがこれらはどれ一つをとっても現実には実施不可能である。だから科学的コスト便益評価自体が机上の空論になる。廃棄物をめぐる科学技術の不始末は、今日こんな段階まで来ているのである。科学技術の便益を捨てるのでないとしたら、廃棄物のいくつかについて、個々のリスク評価と規制対策で我慢するほかはない事態にある。
 二酸化炭素や工業化学物質という廃棄物に比べるなら、原発については問題はまだしも簡単ということができる。原発を止めればいいのである。原発は止められるし、これが科学技術文明の否定を意味することにもならない。原発の代替エネルギーの選択が実現可能な政策論になりうることは、今日多くの論者が示している通りである。
     
科学技術に進路変更を迫る力は何か
 原発事故に遭遇して、先端の科学技術にたいする無条件の信頼が揺らいでいるが、それでも科学技術の不始末はやはり科学技術によって始末するしかないと思われている。科学技術は自らを反省してより良い科学技術にならねばならないと。
 しかし、システムとしての科学技術は、自ら目的を設定して進路を選択することができない。ここで目的とは合理的であるばかりか、倫理的に正当化できる目的を指しているが、テクノロジーの原理は「できるからやる」ということであって、ここに倫理的な目的の設定は含まれていない。また、このシステムは向かうべき方向を予測し制御できるような中枢を持ちえない。科学技術者は道徳家でないばかりか、学者でも知識人でもなく、「精神なき専門人」からなっている。仮に道徳的技術者がその方向にかなうテクノロジーを作りだしても、淘汰されてしまう。かくして当たるものすべてを技術に変えて、科学技術は地球上を押し進んでいるのである。生態系の繁茂に似ている。生物進化と同じように、技術システムは蔓延していく。成功するかどうかはその目的によるのではなく、結果が原因を正当化する。結果だけをもとにしてそのスピードが決まるから、システムは指数関数的に拡大する。科学技術システムの進軍を阻止したり、その進路を変更したりする要因は、システムの内部には存在しない。誰の同意もなしに、気づいてみれば身の回りに新しいテクノロジーが蔓延している。同じことはグローバルな資本の運動についてもいえることであり、科学技術と経済成長路線が相携えて世界を席巻してきたのである。
 では、資本あるいは科学技術に進路の変更を迫るものは何か。生物進化の場合と同様に、「システムの外部」にしか手だてはないのである。生態系はエネルギーや餌の供給が止まれば、また温度など物理的条件を変えてやれば、その生態を変える。同じように、科学技術システムは資源、環境、廃棄物に制約されて生態を変える。これこそが今日、地球環境問題と呼ばれる大文字の自然の露出にほかならない。石油が資源不足から高騰するとすれば、科学技術は別のエネルギーを利用できるようにその形を変える。廃棄物の山は迂回して進まねばならない。異常気象が食糧供給にダメージを与えるとしたら、経済成長路線とともに科学技術のあり方も変わらざるをえない。二酸化炭素の排出が地球温暖化の原因であれば、自動車の普及に抑制がかかる。
 要するところ、大文字の自然、地球という自然に直に接触することによって、科学技術システムに変更圧力がかかる。科学技術文明が忘れてきた生の自然という外部が思いもかけずに露出する。科学技術はこれによってしか自らを変えることができないまでに地球を覆ってしまっているのである。そして、今回の天災の到来こそは、大文字の自然が科学技術システムを横殴りすることになった。事態は鮮烈であり、そこにもうどんな解釈もいらない。地震と津波の襲来が事故を誘発して、原発という先端技術は進路変更が避けられない。原発事故による電力不足は、省エネとエネルギー変更の圧力になる。節電は科学技術文明の生活スタイルに変更を促していくであろう。早い話、街のネオンの暗さに慣れていくのである。このようにして初めて、科学技術というシステムは自らを変えていく。

異邦人の出現
 科学技術の進路を変える外部の力として、見落としてはならないのが非専門家、つまり国民の登場である。震災の犠牲者への悼み、原発は危険だ放射能は怖いという世論であり、これを背景として登場する非専門家たちの運動と議論の力である。もういわゆる専門家だけに科学技術の未来を任せておくことはできない。専門家から見れば異邦人たちが科学技術に介入してくる。これを外部の力として科学技術に変更を迫ることができるかどうか。これこそがいま、原発の、そして科学技術文明の進路選択の焦点になっていることである。大文字の自然の露出に迫られるようにして、当面は全世界で散発する形で、科学技術システムにたいする外部の力もまた露出していくであろう。
 われわれはこれまでこう主張してきた。BMW技術は技術学的に適正であり、かつ道徳的に善い技術であると。環境や農業における科学技術を資本と専門家たちに任せてきた結果が、今日の荒廃を招いている。確かにこれは、環境を「人間化」して食料の増産をもたらした。工業技術の場合と同様に、豊な社会をもたらしたのである。だが、もう限度に来ている。限度に来ていても自らを正すことができないのが科学技術というシステムである。BMW技術は性能がいいから、ただそれだけの理由で、世の中に普及するものではない。BMW技術は協会会員の運動を必要とした。われら異邦人の登場をもって、その技術学的かつ倫理的な力によって、科学技術というシステムに進路変更を迫っている。

Author 事務局 : 2011年10月01日 11:54

 
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