「『サル化』する人間社会」

「『サル化』する人間社会」 
山極 寿一 著 (集英社インターナショナル)

評者: 星加 浩二(㈱匠集団そら)

 著者は、日本の人類学、霊長類学研究の第一人者で、「人間とはなにか」を霊長類を研究することで探ってきた。その人間を人間足らしめているものは「家族」だと。そしてそれは、人間が熱帯雨森から草原へ出て暮らし始めた時まで遡れる。
 さて、「第一章 なぜゴリラを研究するのか」それは同じ祖先をもち進化の過程で別れてきた人間が、人間特有の人間社会をどのようにしてかたち作られてきたのかをゴリラを観察することにより、類推することができる。家族という社会が生物学的な背景を持つなら、人間に近いヒト科のゴリラ、オランウータン、チンパンジーの社会を研究することで解明できるのではないか。著者は屋久島のサルの群れを山中に追いかけて観察することから研究は始まる。生き物を対象とする生物学は、例外の科学と呼ばれように、他の科学と違って検証ができないのである。物理や数学と違って目の前で起こったある現象は時間を逆戻りできないように二度と再現することができないし、作り出せない。
 これはよくわかる。生き物に関係する事象は、人間や動物を始めとして微生物まで同じ事象は起きない、ただ同じように見える事象が起きている。耕作をはじめ畜産でも同じだし、微生物が働いて家畜糞が堆肥に変わったり、作物の種が芽を出し生長していくのも全く同じ事象はなく、同じような事象が起きているだけなんだと実感してわかる。
 さてその観察方法であるが、ジャパニーズメソッドと呼ばれる、固体を識別するために一頭ずつ名前を付けて観察する方法で、起こったことを記録する。それまでの研究からみると大顰蹙をかったそうである。世界中の学者が、ゴリラはゴリラ、サルはサルであって、ひとつの類としか、認めていなかったのである。
 著者は、日本によるゴリラ調査が1960年にコンゴ動乱で断念してから18年後の1978年に、ザイール共和国で再開されるときに初めて調査に入るのである。また、ゴリラの研究をするときには、地元の研究者と一緒に行動し研究を行うことが大事であると考えている。
 「第二章 ゴリラの魅力」この章が一番面白く興味を刺激された。
 ゴリラには優劣やヒエラルキー(階級)がない。雄や雌、体が大きいもの小さいもの、歳をとったもの、幼少のものがすべて対等であるという。喧嘩をしてもどちらかが勝ち負けがつくまで終わらないということはなく、どちらも勝たずどちらも負けない。それは負けるという概念が無いのだという。ゴリラは誰に対しても参りましたという態度は取らないし、そんな感情も表情ももってないという。ある意味こんなに自由な生き方ができるのがとても羨ましく思える。そしてゴリラの仲直りの仕方が面白い。顔を近づけてじっと相手の眼を覗き込むのである。ふっと緊張が取れたとき自然と離れていく。誰も負けない、誰も勝たないのである。
 題名にもなっている第七章「「サル化」する人間社会」では、人間が所属しているエコひいきの集団「家族」と平等あるいは互酬的な「共同体」を両立していたのが崩壊し共同体が無くなって、まっすぐに「サル化」していく、つまり競争とヒエラルキーの社会になって、平等、対等という関係が失われていく社会に向かっていると著者は危惧している。
 家族の定義を「食事をともにするものたち」として、誰といっしょに食物を分かち合い食べるかの共食が大切である。コミュニケーションの場でもある「共食」が「孤食」になっていくと家族の崩壊に繋がっていく。それは人間性を失っていくことで、共同体も消滅せざるを得ない。それは人間社会がサル社会に近づいていく―固体の欲求を最優先にする―のであり、社会を階層化し序列の中で暮らしていく、もうすでにそれは始まっている。
 できるならば「サル社会」より「ゴリラ社会」に人間社会が向かっていくことを思わずにいられない。

Author:事務局 :

『食べ物としての動物たち』

「食べ物としての動物たち」 
〜牛、豚、鶏たちが美味しい食材になるまで
   伊藤 宏 著 (講談社ブルーバックス)


評者:秋山 澄兄(BMW技術協会 事務局長)

 この本は二〇〇一年に発行されていて、新しい本ではないので、ここでご紹介するには相応しくないかもしれません。ですが、畜産の基本知識として辞書替わりになるような本なので、同業多種の方や、農業者ではないBMW技術協会会員の方に是非、ご紹介させてもらいたいと思い、今回の寄稿に至りました。
 きっかけは昨年の一二月でした。西日本BMW技術協会の宮﨑事務局長と秦さん、協会研修生の永合と四人で、西日本エリアのプラント巡回をした際に宮﨑事務局長が是非にと永合にこの本を薦め、博多駅の本屋で一緒に捜していただきました。私もこの本の存在を思い出し、実際に本屋にはなかったので、私が持っているものを中古で渡そうということになりました。後日、私は本棚からこの本を引っ張り出してきて、事務所に向う途中でおそらく七〜八年ぶりに読みかえしてみたところ、これは意外と手放してはいけない本だなと思い、最後まで読み返したため永合くんに渡すのを忘れています。私にとってこの本は、鞄の中に常時入れておくとは言わないまでも、事務所の机の上にはいつも置くぐらいのものと思ったのでした。
 さて、本の内容は①「肉に命をかける豚」を皮切りに、②「産卵鶏という名の機械」、③「食べるために作られたブロイラー」、④「霜降り肉を作る黒毛和種という牛」、⑤「牛はなぜそんなに乳を出すのか」という五つのタイトルから構成されています。豚、鶏、牛の三大食畜産物が実際にどのように生産され、どのように商品となっていくのか、そしてどのように生の幕を閉じるのかまで説明されています。
 まずは五つのタイトルに入る前に、日本での肉食の歴史、消費量、生産量、自給率の推移が書かれていますが、日本人の肉食の歴史は浅く、戦後急激に延びていることがグラフでわかります。本編に入ると、それぞれの生態機能など基本的な情報から、関係者でも知っていそうで知らない食畜知識が満載されていて、データに関しては発行が二〇〇一年と、狂牛病や口蹄疫が見つかる前のもので、状況が大きく変わっている部分もあるかと思いますが、基本的な部分はあまり変わらないのと思うので、物流関係の方達、特に新人社員・スタッフや新しく畜産関係の部署に異動してきた方にはもってこいだと思います。その他にも、日本人は毎年平均一一kgの豚肉と鶏肉、八kgの牛肉、一七kgの鶏卵、四〇kgの牛乳を口にし、それとは別に五三kgの生乳が乳製品の原料として口に入るという消費量。私の体重でいうと約二倍の一四〇kg。日本人は自分の体重の二倍から三倍の「畜産物」を消費していることになっている。採卵鶏は日本人一人に対して一羽程度の割合で飼育されているなど、もちろん、各畜産農家の方々からすると飼育のされ方など、これが絶対ではないという部分もあるかもしれないので、これが全部現状だという認識をすることは良くないのですが、日本の畜産の基本知識というところで消費者の方にもお勧めしたい。
 私がBMW技術と農業を勉強させていただいた、山梨県北杜市の白州郷牧場に在籍していた時の話しですが、北杜市と連携して「教育ファーム」という取り組みを始めました。地域の保育園で、地域の有機農業生産者が月に一回、子供達に保育園の畑で野菜栽培を指導する、畑の管理も含め、時には実際に農場に見学に来てもらうという取り組みでした、おそらく現在も継続しています。ある時に保育園の子供達が先生と一緒に白州郷牧場を見学に訪れ、鶏舎で鶏とご対面を果たした時に、おそらく三〇代前半ぐらいの先生でしょうか、「私、生(で見る)のにわとり初めて!」と嬉しそうに言った時、私はそうとう複雑な思いと驚きを隠せず、「えっ今まで北杜(田舎)に住んでいて、鶏を見たことないのですか?」と思わず聞いてしまいました。するとそばにいた園長先生から「昔は鶏なんて珍しくもなく、家の庭や畑にいたけど、今は田舎でも飼う人はいませんよ」と言われ、これが現実、でも確かに考えてみればそうだなと。畜産は山に追いやられ、ウィンドレス畜舎など、あることは認識できても中は見えない。このあたりで見ることのできる畜産動物は牛ぐらいのものでしょうか。子供達に「鶏は一日に卵を何個生むか知っている?」と聞けば、「六個、一〇個」と答えが返ってくる、これはスーパーの卵パックの入り数だと気づく。こんなことを言い出せばきっとプロの方もきりがなくなると思いますが、食べる側の食材のルーツや生い立ちへの意識は低いなと、知らないものを食べさせられているのか、食べているのかと言わざる得なくなってしまいます。最後はため息ばかり出るようなくだりになってしまいましたが、とにもかくにも、ご紹介したこの本のようなものは必要だなと思っていますので、是非皆さん、読んでみて下さい。
 さて、研修生の永合くんには「大事な本だからこそ、自分で捜して購入しなさい」と偉そうに言ったものも、本人が手に入れたかどうかを確認していません。もしまだ未購入であれば、三月で研修が一区切りになり山形へと帰っていきます、その際に餞別に渡そうかと考えてみようと思います。

Author:事務局 :

「BMW糞尿・廃水処理システム」

「BMW糞尿・廃水処理システム」 
〜自然の自浄作用を活かす
 長崎 浩 著 (農山漁村文化協会)

評者:永合 耀(BMW技術協会 事務局)

 BMW技術の関係者の中には、まだBMW技術のこと良く知らない方やなんとなくしか知らない方もいると思います。私も研修に入ったばかりで分からない部分が多々あります。この本はプラントの仕組みやBMW技術の活用方法等が分かりやすく書かれています。
 そもそも「BMW技術とは?」という方もいると思います。ざっくり言ってしまえばプラントの中で微生物、岩石、水を使い多量のミネラルを含んだ生物活性水を作る技術のことを言います。しかし、なぜそうなるかという話です。自然界における微生物、岩石、水は自然循環の中で大きな役割を果たしてくれています。BMW技術に使われているバイオリアクターは岩石と腐植土を用いて、自然界の浄化作用を再現してくれています。また、プラントは自然の浄化の仕組みを利用していて、バイオリアクターによって空気と水が循環することで微生物を培養してくれます。その培養された微生物が有機物を分解し、土壌腐植質の生成と窒素のガス化等を行ってくれています。つまり、バイオリアクターを使い微生物の培養をし、有機物の投入によって微生物の活性化と有機物の分解をして土壌腐植・副産物を得る、という自然循環を模した技術になります。
 大きな自然循環の中で微生物・岩石・水は重要な役割を担っていました。水は岩石・植物・土壌に触れ、浄化され海や生物を通して循環しています。生物は死に有機物となり微生物に分解され水とミネラルとなり、そしてまた水とミネラルは植物、動物に吸収されます。また、微生物が分解する時に土壌腐植を生み出し水と岩石の屑がそれを吸着させ土壌が生まれます。その中で植物が育ち食物連鎖の流れが出来て、最後には有機物となり微生物に分解されていきます。その自然循環の流れの中にはみ出さずにすっぽりとハマってBMW技術が存在していました。自然循環の流れの中の微生物・岩石・水に着目し、無駄のない処理システムを再現したBMW技術の処理水を河川にながしたとしても、水質を汚染することなく自然を循環することが出来ます。BMW技術には捨てるところがないのは、この自然循環の流れを取り入れすべての物質を新たな資源として生み出すことにありました。
 では、なぜこのシステムに行き着いたか?ということで岩石と微生物は生物と密接に関係していることが大事なポイントになります。話は時間をさかのぼり、地球に生物がいなかった頃から始まります。もともと岩石と海しかない時代の岩石と海水は、ほぼ同じミネラルバランスだったと言われています。地球に誕生してくる最初の生命体は「原始のスープ」と呼ばれており、海水中に存在していました。その原始のスープは海水中のミネラルを取り込むことで増殖していったとされています。そんなことから原始のスープは岩石とほぼ同じようなミネラルバランスになりました。その原始のスープから進化が始り、今、人間がいるわけです。そして原始のスープから受け継いでいったミネラルバランスは、人間にも受け継がれているわけです。また、生物は菌と共生していてミネラル・微生物は人間にとっても切り離せない関係を築いてきました。いい菌を摂取して、体のミネラルバランスを整えることが地球上の生物の健康管理をする上で必要不可欠なことになったのです。つまるところBMW技術を使って出来た、いい菌と多量のミネラルを含んだ生物活性水は植物にも動物にも有用だと言えます。
 そのBMW技術を使い生物活性水を作りだす方法は何種類かあり、使い道も色々です。家畜の糞尿を分離させた液体を使う方法、堆肥の染み出し液を使う方法、家庭の雑排水を使う方法などもあれば、基本はあるものの、そもそものプラントの形が違うものなど、形も一概にこれと言い切れるものではありません。処理水の濃度もプラントによって違い希釈率なども多少変わりますし、田畑に使うか畜産に使うかでの違いも面白いものだと思います。また、何槽目の水を使うか?という選択肢もあり、広い範囲で使えるものになっています。家庭のプランターや鉢、庭先。あるいは生ゴミ処理に使ってもいいと思います。
 最後に、この技術の中心は、技術と人にあると思います。環境汚染が叫ばれる今日において、環境保全型農業や小規模農など自然を守り循環させる農業はとても大事なことだと思います。そして、この技術を通して農家の技術の向上や地域との繋がり、地域再生、あるいは全国や世界に広がっていくネットワーク。この技術の核心でもあり、楽しいことでもあるのは、そういった農業とBMW技術を通して人々と繋がっていくことも一つの理由だと思います。

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「資本主義という謎」

「資本主義という謎」「成長なき時代」をどう生きるか
水野 和夫・大澤 真幸 著 (NHK出版新書)

評者: 井上 忠彦 (BMW技術協会事務局)

 グローバリズムにせよ、新自由主義やTPP推進にせよ、経済成長至上政策にせよ、いわゆるBM的な価値観とはどうも相容れない、相反すると思えるわけですが、いったい、その理由は何なのか。利潤追求しか考えない多国籍企業が悪だ、と批判するだけでは解決できない、ひょっとすると資本主義そのものに最初から組み込まれている何かが、BM的な価値観と対立してしまう性質を持っているのではないか。そんな疑問を持って、この本を読むといくつも示唆を受けることがありました。
 この本は、大澤真幸氏と水野和夫氏の対談形式で、「なぜ資本主義は普遍化したのか?」「なぜ資本主義は西洋で誕生したのか?」「資本主義に国家は必要なのか?」「成長なき資本主義は可能か?」といった章ごとの設問に基づいて議論が進んでいきます。現在の世界をみれば、資本主義以外にはもう人間社会に可能な選択肢はないのではないか、と思えるほど資本主義は世界中を席巻し普遍化していますが、一方で資本主義は歴史的にきわめて特殊な現象です。(諸説ありますが)13〜16世紀に、当時先進国だった中国(明)やアラビアではなく、遅れていたヨーロッパで誕生しました。特殊な時代背景を背負った地域で生まれたものが、なぜここまで普遍化したのか。マックス・ウェーバーの「禁欲説」によればプロテスタントの倫理、特にカルヴァン派の世界観に基づく行動様式が、資本主義と親和性が高かったからということですが、ウェルナー・ブンバルトらは反対の「解放説」をとります。資本主義とは、近代の行動の原理である「より速く、より遠くへ、より合理的に」「蒐集(コレクション)」を最も効率よく実現できる仕組みですが、この恩恵を享受できるのは、限られた割合の少数の人間たちだけです。チャーチルの「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである」という言葉をもとに「資本主義は最悪のシステムであるが、今まで存在したいかなるシステムよりマシである」と形容されます。
 21世紀のグローバリゼーションの行き着く先は全世界の「過剰・飽満・過多」であり、現在は「歴史的な危機」に向かう真っただ中です。
 いま、時代の宗教は「資本主義」だともいわれますが、まさしく、宗教が第一の価値だった中世から、近代に移行したとき、宗教に代わって、人間の新しい教義、モラルを保つ価値観になったのは資本主義でした。これは単に「拝金主義」という意味合いではなく、資本主義が新しい宗教になったのです。中世では、貧しい人間は神に祈ることで天国に行き幸福を得た訳ですが、近代以降、貧しい人間は勤労に励むことで経済的充足を得て幸福になります。
 中世では時間は神のものでした。だから金を貸して利子をとることは「神の時間を盗むこと」であり悪でした。これが、ある歴史的な背景のもとで悪ではなくなります。また中世では「知」も神の所有物であり聖職者と一部の特権階級が独占していましたが、出版の普及によって、多くの人々のもとへ「知」が行き渡ります。宗教改革によって資本主義は誕生しました。

 現在の世界経済の低迷は資本主義社会がもはや新しい投資先を見つけることができないことに根本原因があり、「成長なき世界」の到来はこのままでは避けることができません。最後の章に「中国の存在は中世末期のスペインと同じ。中国以外にはもう膨張するところはない。近代社会の幕引きが中国になる」「資本主義における最終的な世界に勝者はいない」という部分があります。そして、示唆的な映画として「桐島、部活やめるってよ」が紹介されます。映画のなかの現代の高校生には、はっきりとした勝ち組負け組があり、みな閉塞している。決して逆転できない格差が描かれ、これは世界の比喩になっています。つまり「アメリカ、覇権おりるってよ」という映画であり、資本主義の成功のシンボルがなくなる社会をこれから日本人は生きていかなければならない。「現代の資本主義は未来の人間から搾取してしまっている」「人間には未来はないけど希望はある」「世界は病院である」といった言葉で結ばれます。

 さて、2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは、ジョークで「世界的経済危機を乗り越えるためには宇宙人が必要だ」といったそうです。ひとつの可能性は、成長市場のなくなった地球以外の、他の惑星と交易することで経済成長が見込まれるから。もうひとつの可能性は、侵略的宇宙人だった場合、その危機に対して各国の統治者が大規模な軍事的財政支出を行うことで景気が回復するから、と。いわば「巨大な公共事業としての戦争」です。しかし、各国の軍事産業関係者をはじめジョークとはまったく考えていない人たちもいるようです。安倍政権の性急な集団的自衛権行使容認閣議決定のニュースをみて、これもアベノミクス経済政策の一環か、と思いました。

Author:事務局 :

「わたしたちの体は寄生虫を欲している」

ロブ・ダン著 野中香方子訳 (飛鳥新社)

評者 星加浩二 (㈱匠集団そら)

 題名からしてちょっと過激であるが、原題は「The Wild Life of Our Bodies: Predators, Parasites, and Partners That Shape Who We Are Today」である。このParasitesが寄生虫であるが、この原題からは私たちが寄生虫を欲しているとはなかなか思いつきそうにない。
 さて本書の第一章は、エチオピアの砂漠から掘り出された四四〇万年前の一本の臼歯から始まる。その臼歯の持ち主は「アルディ」と名付けられたひとりの女性である。アルディが暮らしていた環境は砂漠ではなく湿気の多い森林地帯だった。周りには寄生虫、病原体、捕食動物、そして相利共生生物と一緒に自然そのままの生活をしていた。そして著者は、アルディからネアンデルタール人、原生人類へと進化する過程で人間が人間になったのは、住居の洞窟に侵入してきたヒョウを追い出して殺すべきだと判断したときからはじまり、自分たちの周囲にいる何を生かし何を殺すかを決め、他の種を殺し始めた時に、わたしたちは完全な人間になったのであるという。それからわたしたちの周りに起こったことは、自らの手で環境を作りなおし、限られた作物(小麦、トウモロコシ、ライ麦)のみを育て、害虫や寄生虫、病原体をきれいさっぱり消し去ったことである。
 しかし自然を喪失したわたしたちを待ち受けていたのは、今までになかったタイプの病気の出現である。
 第二章、「寄生虫は人類にとって欠かせない最高のパートナー」に自然(寄生虫)を遠ざけた結果(病気)が語られている。その最も悩ましい病気のひとつが、免疫システムが自分の消化管を攻撃するクローン病である。わたしたちの免疫システムは、病気と戦う二つの軍隊を持っている。一つはウィルスや細菌などと戦うもの、もう一つは大きな敵、寄生虫と戦うものがある。この免疫システムについて私は、自己と非自己を区別して非自己を攻撃することという単純な知識しか持っていなかったのであるが、ここに述べられている免疫の仕組みは、もっと複雑で絶妙であることを教えてくれる。
 もし寄生虫をやっつけられなくなって腸内に棲みつかれた場合、体はどうするのか。実は免疫システムには調停役というものがいるのである。棲みつかれてしまった時、やっつけられないのに攻撃を続けるエネルギーの損失を回避するのと、ウィルスや細菌と戦うためにエネルギーを温存するため、調整役がでてきて攻撃をやめるよう指令を出すのである。しかし現代の清潔な暮らしから寄生虫が遠ざけられた結果、寄生虫をやっつける免疫軍がそのエネルギーを自己の腸に矛先を向けるのである。寄生虫がいないため調停役の出番がなく、その攻撃の手を緩めることができなくなりクローン病に罹ってしまう。これは単に腸内のことではなく体表面(皮膚)など免疫に関係するところにも発現するのである。
 発展途上国より先進国で過剰な免疫反応による病気が多いのは清潔な暮らし―自然から離れた―になったからである。そのための治療にもう一度寄生虫を腸内に取り込む(体が欲している)ことにより症状が良くなることが述べられている。また現在では役割がないと思われている虫垂の存在理由も、実は細菌の棲みか―バイオフィルム―であり、もし下痢などで腸内の細菌が少なくなったときに供給する―それこそ菌庫であるという。不思議満載である。
 第三章では、「乳牛に飼い慣らされて」というテーマで、人間が乳牛の祖先「オーロックス」を飼い慣らすことによりその乳を手に入れることができたのだが、実は人間も牛乳を消化するラクターゼという酵素をつくることができるように、「オーロックス」に飼い慣らされていたことが述べられている。
 第四章では、「すでにいない肉食獣から逃げ続ける脳」として、すでにわたしたちのまわりにはヒョウやトラ、ライオンなど捕食する肉食獣は見当たらないのに無意識下ではわたしたちはいまだにその恐怖から逃れられないでいる、と書かれている。この章で取り上げられているのはトラのほかにヘビがある。人と毒ヘビの係わりあいから、人はいかに毒ヘビをいち早く見つけることができるように目│視力│を発達させてきたという。寄生虫や乳牛と同じく自然との係わりあいの中で相互に進化してきたのがわたしたちの体であることを教えてくれる。
 第五章の「人間が体毛を脱ぎ捨てた理由」は、シラミやマダニ、ノミなどの外部寄生虫による病気から逃れるためであった。この問題もわたしたちと他の種との相互作用が原因で体毛を失ってきたのだ。 
 第六章、「太古の昔から現在まで、断崖で暮らすわたしたち」では、わたしたちの暮らしにどうすれば捨て去った自然(Wild Life)を再び回復することができるのか、新たな方法が提示されている。しかしそれは現代の便利な暮らしから不便な昔に戻るのではなく、またわたしたちに欠けている単なる自然でもなく、わたしたちが求めている自然は、豊かさや多様性、そして恩恵をもたらす自然なのだ。そのとき忘れてはならないのが、目に見えない腸内の寄生虫や腸内細菌も恩恵をもたらす種であることだ。

 生命の誕生から現在まで、細菌から植物、大型哺乳類やわたしたちを含め、どれ一つとして単独で生きてきたものはなく、すべて相互関係の中で命をつなげてきたことに思いをはせることを、この本が教えてくれるのではないでしょうか。

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