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『自主独立農民という仕事―佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』

森 まゆみ 著 (バジリコ刊)
評者 高瀬幸途(太田出版)

 日本の農業界にその人ありと知られる佐藤忠吉の評伝・言行録です。「文章の職人」を自称する森まゆみが、丹精をこめ時間をかけて紡ぎ上げた木次の百姓たちのたたずまいは、農業が生涯に相渉る事業であるばかりか、過去と未来の人々、各地の人々を招き寄せてともに織り成す事業であることを示して余すところがない。佐藤の話をもっと聞きたいという読後感を持つが、それは読者それぞれが木次を訪ねてお願いしてみるしかない。多少なりとも農業に縁ある人には必読の一冊です、まして農の民の道を選んだ人には。
六〇年代後半から無農薬の米作りを始めて七〇年代初頭には地域で有機農業研究会を結成、乳業メーカーとして日本初の「パスチャリゼーション」を使ったのは七八年、いまや「風土プラン」というゆるやかな連携の輪を広げてじつに多様な食品類を生産販売している佐藤の事跡はまことに目覚しいもので、それぞれに独創的なものであることはいうまでもないが、農業に素人の私が出る幕はなく、その詳細については本文に当たっていただきたい。

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 私が注目したいのは「自主独立農民」という言葉です。
どんな職業についても強固な価値観の持ち主であっても、人はうろたえてしまう存在なのだと思います。小は財布や携帯電話を落としたとき、大はかけがえのないものを失ったとき、人はたやすくうろたえ、パニックにおちいります。信心の深い人やイデオロギーのかった人などは、かえって大きく動揺してしまう。うろたえる出来事が自分に起因しない場合、背骨が折れるほどに打ちのめされる。そういうむごい事件に無縁なまま一生を終える人は少ないでしょう。
佐藤忠吉の場合、本書を見る限り三つの事件に遭遇しています。足掛け七年の軍隊生活、鉄砲水による次男の死亡事故、盟友の事故死。(むごい出来事を人は沈黙をもって耐える場合が多いので、彼の身辺にはもっと事件が生じている、と推測すべきではないか。)
国家の暴力と自然の暴威の前には人の命などなんとか弱いものであることか、人の知力と意志なぞ羽毛のようなものでしかないという非情な認識、その認識がなお生きる意欲へと反転していく場所に「自主独立」という言葉が置かれていると感じられます。 口舌の徒である私の場合、折れてしまった背骨を治すために、色んな本の中から適当な断片を集めてくるしか方法がないでしょうが、佐藤は乳牛の世話や畑の手入れ、「使い捨て時代を考える会」の槌田劭などの全国の友人知人の励まし、家族や地域の仲間たちとの食事などを通じて、反転の姿勢を固めていったのではないでしょうか。息子の命を奪った大地に手をあてて、何事かを出雲弁で念じ続けたに違いありません。
「国や町に頼らない自主独立した農民、国がなくなっても自分たちが生き残るための戦略を練っとります。しかし、自給というところに立つと、かえって自分ひとりの力がいかに小さく弱いかに気づく。足りないものは信用できる他人からゆずってもらう、これが地域自給圏。けれど、ゆるやかな共同はむずかしい。人のふところまで入り込んだ共同は、解体していくような気がします。お互いをみとめあって助け合う、しかし必要以上には入り込まん方がいい」
こう語る佐藤は今年八七歳、「いまは二流三流でがまんしながら、目標はきちんと理想は高くかかげる。人間なんて未完成なもので、私は未完の百姓佐藤忠吉のまま、あの世に行くことになろうかと思う」との言葉が、どれほど私たちの心を鼓舞することか! しかし、どうしてかくも心を打つのでしょうか!

Author 事務局: 2007年12月15日 14:48

 
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