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『弱者のための「エントロピー経済学」入門』

槌田 敦 著(ほたる出版)
評者 高瀬 幸途(太田出版)

 二十年ほど前に亡くなった経済学者に玉野井芳郎がいます。主要な著作は『玉野井芳郎著作集全四巻』(学陽書房)で読めますが、晩年「生命系の経済学」を提唱し、廃物・公害・生態系を含む経済学構築を目指しながらも、道半ばで終わりました。
 玉野井の最後の論文は、「現代の危機がエントロピーの危機である」という視座の必要性を強調し、次のように語っています。「経済学は物理学を暗黙のモデルにしている。しかし、物理学にはふたつの立場がある。ひとつは、ニュートンを代表とする可逆的対称的力学であり、もうひとつはカルノーに始まる非可逆的非対称的熱学である。これまでの経済学がモデルにしたのは前者の範囲であった。そして、巨視的な物質がエントロピーの法則により不断の劣化にさらされていることを忘れて議論している」
 エントロピーは十九世紀半ばに熱力学から生まれた物理量で、物や熱の拡散の程度を示す状態量、それが不可逆的に増大するという法則性です。玉野井は、そのキーワードを槌田敦から学び、いわば共同研究として「広義の経済学(狭義の経済学は市場経済・商品経済を中心とする)」を作ろうとしました。
 玉野井・槌田はエントロピー学会の創設者たちですが、玉野井なき後、槌田は七十五歳になる今日まで、精力的に研究を続け、いわば玉野井の衣鉢を継いで本書に見られる「疲弊した社会を修復・再生するための処方箋」としての経済学を刊行したわけです。
 本書は大きな本ではありませんが、個人の生命、供給・需要、貿易、生態系、気象のメカニズム、開放定常系として地球など、微小なものから巨大なものまで、生命から非生命まで、それらをまるごと貫く視座としてエントピーの法則を使っていて、まさに体系といえる内容豊富なものです。エントロピー学者による資本主義論ですが、専門用語も少なく数式もありませんから、誰にでも読みやすいですし、「目から鱗」の記述がそこかしこにありますのでご一読をお勧めします。
 例えば、「自然」という言葉がもたらすイメージは多様でしょうが、著者によると、砂漠こそが自然の一番の自然状態(エントロピーが極大)で、海洋の中心部は海の砂漠だそうです。生命の希薄な状態こそ自然である、という指摘は驚きです。しかも、「砂漠」に生命をもたらすものが、風や地球の自転や海流による湧潮という地球物理的な条件であり、海底に溜まっていた栄養素が海面近くに上がって、それを餌にプランクトン→海草→魚→鳥(昆虫)→森林という連鎖が生じると説かれています。
 非生命の物理・気象・海洋学と生命の生態・生物学が見事に組み合わされていて説得力があります。しかも、これがエントロピー学の真骨頂の一つでありますが、前記の食物連鎖はその排泄物の循環という裏の過程を含めて認識することで、より全体的に生態系を把握できるのです。マンションのベランダの鳥の糞はたんなる汚れかもしれませんが、郊外や森・砂漠にまかれる鳥の糞は、「肥料付きの種子」なのです。現代の都市住民を例外として、一般に動物は排泄物処理に悩まない、自分の死体を含めて循環の資材ですから。
 地上に生きとし生けるものは、等しく重力の影響下で暮らしています。馬齢を重ねるとお腹やお尻の肉が垂れ、背が丸くなります。生命の栄養素であるチッソ、燐酸、カリなども、重力と水の力で山地から海の底に運ばれます。放っておけばことごとく砂漠化する自然に生態系をもたらすのは、生命の反重力的な仕事であって、しかもその仕事にはエントロピーの増大則がつきまとっています。エンジン(熱機関)の開発の中からエントロピーは見い出されましたが、その後の重化学工業化(化石燃料の大量使用)の進展の中で、膨大な廃棄物=産業社会の糞が生まれ、もはや生態系では処理しきれない状況になっています。WTOの自由貿易が生み出す南北の経済格差、国内の失業者・フリーターも、現在の経済システムが処理しきれなくなった一種の「廃棄物」です。
 いわばゴミまみれ汚物まみれの状態になっている地球に、より合理的な経済システムと生態系をもたらすためにはどうすればいいのか、その実践的対応策として本書は書かれています。掲げる理念は「公正(フェア)」です。地球に住むどんな人にも公正であること。重力やエントロピーが誰にでも作用しているように、その作用の法則をよく知り、それを上手く利用して生態系の限界(その拡張を含めて)の中に経済を埋め戻すことを感動的に主張しています。私たちが糞詰まりにならないために、糞まみれにならないために、排泄物(弱者)から考えよう、と。

Author 事務局: 2008年05月01日 01:04

 
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