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『日本辺境論』

『日本辺境論』内田 樹 著 (新潮新書)

評者 山本 伸司 BM技術協会常任理事(パルシステム生活協同組合連合会)


 内田樹氏の著作は、独特の理論展開がされる。これが、面白い。
どうしてこういう独特の思考ができるのかと不思議だったが、彼が神戸女学院大学教授で仏現代思想を専門とし、映画論、武道論をも研究し、しかも実際に合気道を教えていると知ってなるほどと思った。

 日本は辺境の国だと断定する。そしてこの日本辺境論において、日本人は、こうあるべきという理念型の国づくりをしていないとし、従ってこの自分たちのありようをそのまま認めて、そこから新たな展望を考えようとする。
 先ずは、日本人論がなぜこんなに日本では盛んかと問い、いつも「きょろきょろしている」と丸山真男を引用する。他の国との比較で判断するクセが染みついているというのだ。いつも外から先進的な考え方や、やり方を導入して日本的に変える。この変えるやり方はずっと変わらないという。
 アメリカのオバマ大統領の演説を引用する。このなかでオバマは、建国者たちが過酷な労働に耐え、西部を拓き、鞭打ちに耐え、硬い大地を耕してきたといい、彼らは、コンコードやゲティスバーグやノルマンディーやケサンで戦い死んでいったと話し、これを自分たちの現在に引き寄せ、アメリカを再創造する仕事に取りかかろうと呼びかけている。
 しかし、日本ではこのような理念型の国作りではなかったし、立ち帰るべき国民的合意も無いという。
 ここで東京裁判での丸山眞男の引用。小磯国昭元首相への検察官の質問は、あなたは、満州事件の勃発に反対し、中国での日本の冒険に反対し、三国同盟に反対し、…けれどもこのすべてに反対していながら首相になって指導者になったという矛盾を突いている。
 これを指摘されると私がすぐ思い出すのは、昨年夏にNHKで海軍軍令部の反省会が放映されたことだ。このときも、海軍のエリート司令部たちがみな「被害者」意識の発言をしていたことだ。彼らの指示した前線では、あれだけ無残な敗北が強制され最後は本土空襲と原爆での悲惨な結末を迎えたというのに、である。司令部の人びとがすべて「被害者」意識なのには驚いた。

 ここまでは、誰でも指摘する日本人論じゃないかと言われそうだ。だが、内田氏のユニークなところは、この「民族的奇習」を治すのは、掃除のようにやらなければならないと指摘することだ。要は気づいた足元のゴミを拾うこと。徹底的にやってはいけない。
 日本は、その名の通り「日の本」でどこから見たら日がでるか、と述べる。つまりは中国から見た名前だという。この中国との関係のつくりかたを、「知らないふり」で表している。無知ゆえの華夷秩序を知らずというふりをして好きにふるまったと。いまのアメリカとの関係も知って知らないふりをすることで矛盾を糊塗しているともいう。

 何が問われているか。内田氏は、日本は世界をリードする立場に無いとし、むしろ「学ぶ力」の衰退を憂えている。この「学び」は、独特で「先駆的に知る力」だという。それは、レヴィ・ストロースが「ブリコラージュ」と呼ぶ野生の思考であり、あらかじめ有用とは分からないものを大事にする能力のことを言っている。これから起こることへの知恵である。
 そして、伝統分野の技術習得の弟子たちが技術そのものを教えられる前に、掃除から始めることを重視する。要は、知識や技術の習得のまえに、学ぶ受容体を形成し、そのことで自学自習のメカニズムを発動させることが大切としている。他国からの「学び」もまた本来はこの自学自習の力からであった。
 ここから、機の思想をかたり、敵を作らず、しかも共感を広げる日本独特の文化が語られようとしている。その典型がマンガである。このマンガこそ、文書と絵による一瞬の読者と作家の共同作業ということができるという考え方。こういう独特の融合性と創造性こそ、日本が辺境であることから生み出される豊かさではないかと言っている、と思う。
 内田氏のいう意味は、とにかく、現在の日本の特性「民族的奇習」を率直に知ることこそ大事だということである。それ抜きに、アメリカや中国を語ってもどこかおかしくなるのではないかということである。

Author 事務局: 2010年04月01日 11:12

 
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