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「ヨーロッパの戦後史」

「ヨーロッパの戦後史」トニー・ジャット 著   (みすず書房)

評者 遠藤 尚志 (NPO支援センターちば)


 目指すべき社会はどういったものか、どういった生き方・働き方がよいのかについてイメージする際に、多くの人が漠然と現状最も魅力的なものとして「ヨーロッパ」をイメージしないだろうか。本書は、そういったイメージを「ヨーロッパ・モデル」と呼ぶのだが、そのモデルとはどういうものなのかについてと、あるいはどうやってできてきたのかについて、ロシア以東のほぼ全ての国(スカンジナヴィア諸国や、バルカン半島、オーストリア、アイルランド、中東欧諸国なども含めて)における個別の戦後史を、驚異的に広範で正確なデータを基礎として、相当任意にごたまぜにしながら、また宗教や共産主義やビートルズやファスビンダーやアメリカ型文化植民地主義や市場経済の技術的発展等々といった出自も領野も相異なる諸テーマ・諸価値を扱いながら、答えるものである。

 そこで著者が主張するのは、多くの人がイメージするような普通「良きヨーロッパ」としてイメージされる以下のようなものに留まらない。労働時間の減少と有給休暇の充実(イギリス人は、年間23日、フランス人は25日、スウェーデン人は30日以上)といった労働環境の良さ、高い税金を担保にしてはいるが無料、ないしは無料に近い医療サービス、早期の引退、並外れた公共サービス、良い教育、寿命が長い、より良い健康状態、貧困状態の人が少ないなど「ラインラント型」「スカンジナヴィア型」「カトリック型」といった福祉国家としてのヨーロッパであり、こうしたものは「ヨーロッパの社会モデル」として「ヨーロッパ・モデル」とは区別されている。

 むしろ本書で著者が重要視するのは、そういった社会・国家の前提として、モラルや人道とでも呼ぶしかないような、社会的権利や、市民の連帯や、近代国家にとって適切かつ可能な集団責任などのバランス感覚(文書や法律に明記されることもあるし、されないこともある)、あるいは「できうる限り誰彼も除け者にしないようにしよう」という意識・考え方が広く行き渡っているという「脱民族」「脱イデオロギー」としてのヨーロッパであり、対極としてあるのは、過酷な状況を超えて民族(国民)国家を創設し、力ずくで防衛してきたイスラエルである。こうした感覚が、世界が単一のアメリカ型の「基準」に収斂しないということが前提となりつつある現在において、社会の構成に対する歴史からひきだされた知恵であり、その集積が「ヨーロッパ・モデル」なのだと。

 本書のエピローグ「死者の家から」において、そうした「ヨーロッパへの入場券」は「キリスト教の受洗」ではなく、「絶滅=ホロコースト」だと断言されている。最初の戦後のヨーロッパは、故意にたがえた記憶――生活方法としての「ホロコースト」の忘却――の上に建設され、1989年以来、それよりもむしろ過剰補償――集合的アイデンティティーの基盤そのものとしての制度化された公的な「ホロコースト」の想起の上に建築されたのだ。そこでヨーロッパと同じ歴史は持っていないアジアや、日本に翻ってみた時に、果たして「ヨーロッパ・モデル」から何を引き出すことができるのだろうか。結局まず何をどうしたらいいのだろうかと立ちすくむ思いがしてくるが、目指すべき社会についてのビジョンや基準なんて何もないのだと嘆く前に、「21世紀の初め、ヨーロッパ人が直面するジレンマは社会主義か資本主義かではなく、ヨーロッパかアメリカかでさえない。この選択はほとんどの人の心の中で、ヨーロッパへ好意的な形で、すでに有効な解決が図られているからである」と断言する著者に従ってこうしたヨーロッパの達成した様々な成果を肯定的に知ることから始めようという気にさせる本である。つまり、様々なことをとにかくたくさん勉強したいと思わせる本となっている。

Author 事務局: 2010年07月01日 01:09

 
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