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「原発を終わらせる」

「原発を終わらせる」 石橋 勝彦 編 (岩波新書)

評者 阿部 均 (株式会社 米沢郷牧場 事業部長)

 本の帯には「脱原発以外に道はない そしてそれは可能だ!」とある。本書は、それぞれの論者(研究者やジャーナリスト)が限られた紙幅のなかで「原発の問題性」を検証しており、様々な立場の意見を一度に読め、また多面的に検証することの必要性を教示してくれるものである。
 Ⅰ「福島第一原発事故」の検証、Ⅱ科学・技術的側面から、Ⅲ社会的側面から「原発そのもの」の検証、Ⅳ原発をどう終わらせるか、の検証がなされているが、多方面からの考察ということで、リアルタイムの議論の的があるのは当たり前で、初めて目にする「論」「概念」も多々ある。
 福島第一原発事故の現状では、一号機が地震(「耐震脆弱性」)により(津波より前に)冷却材喪失で「超特急メルトダウン」の最悪のシミュレーションが考えられ(田中三彦氏)、溶けた核燃料と炉内構造物(溶融デブリ)がどこにあるか未解析の状況がある。格納容器は設計上、メルトダウンには耐えられず(おかげで格納容器の爆発がなかった)、炉心は外界と直接つながり放射性物質(チェルノブイリの三倍以上)を出し続けている(後藤政志氏)等、未解明ながら事故処理がいかに大変かを説いている。
 鎌田遵氏の「福島原発避難民を訪ねて」では「エコサイド」という言葉が強く印象に残る。それは、生態系、ひとびとの暮らし、健康、さらには伝統文化まで根本から破壊しつくす文明の暴力、とある。アメリカ先住民の研究者は、彼らがウラン採取、核実験、核廃棄物最終処理場として凌辱され、大地や健康を破壊され、移住を余儀なくされたことと、福島第一原発周辺から避難してきた人たちは同じと断じている。また、東北電力が浪江町に建設しようとした「棚塩原発」と反対運動はあまり知られていない。もし棚塩原発ができていたら、被害はさらに大きくなっていたこと、土地を最後まで売り渡さなかった反骨の農民・舛倉隆氏の不買運動の評価にも言及している。
 原発の何が問題かでは、「不完全な技術」「先の見えない技術」として完膚無き評価が下されている。玄海原発で問題になっている「圧力容器の照射脆弱」(原発はもともと三〇年ないし四〇年の寿命を想定して設計)と、高レベル廃棄物の地層処分にとって重要な「オーバーパックの耐食性」(誰も予測できない)(井野博満氏)。原発事故の被害試算が五〇年前に行われているが、そこでは放出条件と気象条件によって大きく変化があるが、人的・物的被害が国家経済の破綻の可能性まで出ていた(今中哲二氏)。日本の原発は「地震付き原発」という特殊な原発であり、危険性を制御しきれない。生命と地球の安全と清浄のために存在すべきでない(石橋勝彦氏)。「安全神話」はもともと、立地地域住民の同意を獲得し、立地審査をパスするために作り出された方便にすぎない(吉岡斉氏)。
 伊藤久雄氏の「原発依存の地域社会」では、福島の自治体や全国の原発立地市町村の財政状況を俯瞰している。清水修二氏の「原発立地自治体の自立と再生」とも絡んでくるが、そこには「安全神話(瓦解した)」とともに「麻薬神話(一度受け入れてしまったら二度と足をぬくことはできない)」もあり、複雑な状況が露わとなっている。
 そして「原発を終わらせるための現実的かつ具体的な提案」となる。そこでは「国策民営」の原子力政策を主に日本の政治・経済の根本的な問題点を解明し、対案として「エコロジー的近代化(環境と経済の両立)」が説かれ、分散型ネットワーク社会、ドイツのエネルギー政策、住民自治(地域)力の向上等に触れられている。
 止まれ!ここで言われているエネルギー政策から導き出される「第三次産業革命」(情報通信産業とそれを媒介としたサービス産業が主軸となり、イノベーションを主導)とかをそのまま受け入れられるのだろうか。
 確かにエネルギー政策の転換(「脱原発」)はたぶん(…)可能となるだろうが、飯田哲二氏が言うように「経済のありようは様々な要因から決まり、エネルギーはその一つに過ぎない。しかし、エネルギーは経済のありように大きく影響される。重要なのは両者のバランスである」。主客転倒してはならない。あくまでも主は「環境と両立できる経済」であり、それに「エネルギー」を合わせるべきである。
 今必要とされているのは、エコサイドからの脱却をはじめ、農業・漁業等の一次産業の復旧・復興の道筋を優先し、持続可能な発展を前提とした循環型社会を真摯に模索することである。

Author 事務局: 2011年09月01日 12:08

 
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