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「木田金次郎 山ハ空ヘ モレアガル」

斉藤 武一 著 (北海道新聞社刊)


 北海道を代表する洋画家、木田金次郎の生涯を描いた『木田金次郎 山ハ空ヘ モレアガル』は、著者、斉藤武一さんの渾身の一作である。斉藤武一さんは、北海道・泊原発に反対する岩内町在住の運動家であり、他方、泊村、岩内町をこよなく愛する郷土作家としても活躍している。斉藤さんが同郷の画家、木田金次郎の足跡をこの書にまとめたのは、何よりも、木田金次郎の生き様に深く共感したからにほかならない。
 それでは、木田金次郎とはどんな人物か。木田金次郎は、一八九三年(明治二六年)、北海道、積丹半島の西の付け根にある岩内に生まれた。金次郎が生まれた頃の岩内は、ニシン漁の豊富な漁獲高で町は潤い、商業も発展した。しかし、ニシン漁の最盛期は二〇年ほど続いた後に衰退した。金次郎は、町の盛衰に振り回される海産物商の次男に育ちながらも、父親の支援もあって一四歳で東京の開成中学に入学した。大好きな絵や語学を学ぶためである。しかし、父親の家業が傾きかけると、家業を手伝うために、帰郷をよぎなくされる。短い東京生活ではあったが、そこで人生最大の転機を迎えるきっかけになった。当事、白樺派の中心人物として活躍していた作家、有島武郎との出会いである。有島武郎は一八七八年(明治一一年)、東京、小石川の裕福な家庭で生まれた。生い立ちは貧しい金次郎とはまったく逆の境遇であったが、やさしく迎え入れてくれた有島との交流がはじまった。有島に金次郎の絵が目に留まったからである。金次郎は有島に絵を送り、手紙をそえた。
 「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニ描イテ見タイモノダト思ッテイマス」
 有島は、岩内の自然、風景を描く金次郎の絵画への気迫と、故郷、岩内への強い執着をこの一文から読み取った。斉藤さんが本書のタイトルに選んだのも、金次郎の絵画の核心がこの言葉に刻まれていると見たからであろう。
 故郷に帰った金次郎は、厳しい漁師生活の傍ら、絵筆を握る生活を続けた。やがて、有島は金次郎との交流をモデルに一九一八年(大正一二年)小説「生まれ出づる悩み」を世に発表することになる。だが、小説のモデルにされた金次郎は、この有名な小説の重圧を生涯背負うことになる。
 ここで、有島武郎と木田金次郎の時代背景に触れてみよう。有島と木田が生きた二〇世紀初頭は、日本では大正デモクラシーが勃興し、欧米の社会主義の浸透などもあり、日本の知識人に大きな思想的な影響を与えた。有島は、渡米後、社会主義を学び、ホイットマンやイプセンらの西欧文学の強い影響を受けたといわれる。さらに、アナーキストの大杉栄との親交もあった。実生活では、北海道に所有していた自らの農場を小作人に解放するなど、先進的な思想の持ち主であった。そんなことが、貧しい漁民にすぎない木田金次郎の才能を高く評価し交流していくことに繋がったと思われる。金次郎自身も、時代の寵児ともいえる有島との出会いは、生涯の心の支えになったことは間違いない。思想的な影響も深く、人間愛、戦争観、自然観など、金次郎の発する言葉の端々に有島の影響をみてとることができる。帰郷した金次郎が、再び絵の勉強をしようと上京を希望したとき、有島は「東京に出るよりも少なくとももう暫くはその地に居られて勉強をなさったら如何です。君の画のように立派な特色を備えた画は余計な感化をうけないで純粋に発達させたほうが遥かに利益だと思います」と突き放した。有島は金次郎のように故郷の自然を心の眼力で描いた作品には、中央画壇の技巧などは必要ないと諭したのだ。この瞬間に、木田金次郎の固有の画境の道を開いたといっても過言ではない。
 著者の斉藤武一さんは、木田金次郎の、岩内という地域にこだわり続けた画家としての姿勢に強く共感を抱いている。いま、岩内は、泊原発に翻弄されて町の衰退は著しい。この本は、故郷、昔日の岩内には、木田金次郎のような逸材が存在していたのだと誇らしく語りかけているようだ。
*木田金次郎の作品を観るには、岩内町にある木田金次郎美術館を訪ねてください。

評者:大田 次郎 (BMW技術協会 事務局)

Author 事務局: 2011年11月01日 13:52

 
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