「ファーブルが観た夢」

森 昭彦 著 (ソフトバンククリエイティブ)


 書名を見てすぐ思い出したのは三十数年前に神田の古本屋街で手に入れた岩波書店の文庫(青帯)だった。セロファンのカバーがかかった色あせた文庫本は本棚の肥やしになって、たまに手にとって読みだしてはまたもとに戻しての繰り返しだった。いつまでたっても第一巻から先へ進まない。全二十巻部読み終えるのにどのくらいかかっただろうか。しかもその中身といえば狩人バチと糞コロガシしかあまり記憶に残っていない。それとファーブルがしつこく書いていた、ダーウィンの進化論にある自然淘汰(自然選択)説に対する狩人バチなどの獲物に施す麻酔処理は、初めから持っている本能だと主張していたことが頭に残っているくらいであった。

 さて本書であるが、著者はファーブルが残してくれた自然観察の醍醐味を感じることは誰にでもできることであり、身近な自然を感じるその楽しみについて書いている。
 狩人バチ、ヤママユ、泥バチ、ゾウムシ、そしてスカラベもファーブルが観察していた南フランスの田舎にくらべ、日本はどの種も比べものにならないくらい多い。それは地球における二大急流-偏西風と黒潮-に日本が囲まれており多様で豊かな自然環境がこの日本列島に残されているためであると論じている。さらに、日本列島は巨大プレートがやたらとひしめく「断層の巣」であり国土のほとんどが山地や丘陵であるのは、地殻変動によって皺くちゃにされているためであると。つまり岡山大の奥地准教授がいつも言っている日本列島は地球上で一番新しい岩石が誕生している列島であるために、この日本列島に生物多様性が保持されてきたのだと。

 著者のフィールドで繰り広げられる昆虫たちの生態観察の苦労話にも引き込まれてしまう。観察のため周到な用意をしていてももちろん昆虫はこちらの思惑通りには行動してくれず、偶然というチャンスのほうが自然は思わぬ姿を見せてくれるという。それでもやっぱりファーブルはどうにかしてその偶然でさえも自らのアイデアで周到に準備している。そのアイデアにはまったく驚かされてしまう。そのアイデアと同じことを著者もおこなって観察している。昆虫にとってははた迷惑な悪戯をされるようなものだが昆虫にとっても本能はそう簡単に変えられるものではないと、頑固に決められたパターンを最初から繰り返す。臨機応変という行動が現れることはない。決して見る事が出来ない我が子のために親は決められた本能を忠実に再現するしか命をつなげる術を知らない。
 
 ファーブルが九十二歳で他界するまで全十巻という大著の昆虫記で伝えたかったことは、ファーブル自身がその著作の中で「わたしはこの本を、本能とはなにかという難問をいつの日か少しでも解いてみようとする学者や哲学者のために書いているのだが、それだけではなく、とりわけ若い人たちのために書くのだ。」(集英社刊/「完訳ファーブル昆虫記・第二巻(上)」第一章)
 このファーブルの「夢」を著者は活字の上で想像するだけでなく、「真理」に至るまでの「さまざまな試行錯誤」と、そして昆虫という小さな「ありきたりの隣人たちの暮らし」ほど面白いものはないと、ファーブルの実験と観察を著者の研究フィールドである有機栽培のハーブガーデンにおいて実際に確認するのである。
 ファーブルがおこなったやり方が今でも昆虫の観察に十分有効な手段であることがとても驚きであり、自分でもやってみたいと著者の狙いにはまってしまう一冊である。
 なにはともあれ、「事件が起こっているのは、机の上ではなく現場」なのである。

オマケ:この本の中にBMW技術のB(微生物)に関する面白い記述があります。
 日本にいるルリオトシブミは菌の種を運び育てていることが最近になって発見されたという。生まれてくる赤ん坊のために、そのゆりかごをこしらえるときにメスの後ろ足の付け根にある小さなポッケから糸状菌のタネ(胞子)を植え付けて子供の食物にするのである。なんと微生物を上手に利用するのは、何も人間に限ったことではないのだ。
 また、昆虫に共棲している微生物が指令を出して昆虫の行動を制御しているというのだ。もしかすると我々人間にもその腸内に棲息している微生物だけで何百兆という数が共棲している。その微生物の好みでもしかすると食べ物の好き嫌いが指図されているのかもしれない。
評者:星加 浩二 (㈱匠集団そら)

Author 事務局 : 2012年02月01日13:57

 
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