「放射能汚染の現実を超えて」

「放射能汚染の現実を超えて」 小出裕章 著 (河出書房新社)

評者 岡田 哲郎 (NPO支援センターちば・理事)

 この著書は、旧ソ連・チェルノブイリ原子力発電所事故により世界中に撒き散らされた放射能被害の実態や対策、原子力・原発に対する思想を明らかにしたもので、1992年に出版されたものを福島原発事故のあと、河出書房新社により5月に復刻されたものである。
 その「序」で人類は他の生きものたちとの比較でいえば高い知能をもった生物として「原爆や原子炉によって人類は放射能」を生み出すことができるようになったが、しかし人類にできないことも無数にあり、一度生み出してしまった放射能を消すことができないし、時間をもとに戻すこともできない。その結果として、人類の生活環境に撒き散らされた放射能汚染からは免れることができないという冷徹な事実を指摘している。
 「人類はいずれ絶滅する。生物として当然のことである。恐れるべきことでもないし、避けられることでもない。それと同じように、一人ひとりの人間もどんなに死を恐れ回避しようとしてもいずれ死ぬ。一人の人間など、ある時たまたま生をうけ、そしてある時たまたま自然の中に戻るだけである。人間の物理的な生命、あるいは生物体としての生命に尊厳があるとは、私は露ほどに思わない。もし人間に尊厳があるとすれば、命ある限りその一瞬一瞬を、他の生命と向き合って、いかに生きるかという生き方の中に、それはある…(中略)…私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが怖いからではない。ここで詳しく述べる誌面もないしその必要もないと思うが、原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上に成りたつものである。その姿に私は反対している」と、生き方の中にこそ生命の尊厳はあるという科学者と哲学者の目を持っている。
 最初の「チェルノブイリの死の灰はどこへ行ったのか」の章では、原発の大事故による汚染地域の被害状況がソ連・ヨーロッパに限らず日本(8200キロ)、さらには地球規模へ拡大や食品汚染の広がりによるソ連・ヨーロッパ地域の深刻な被害は、セシウム汚染で約80万人強ががんで死ぬという予測になり、ヨウ素、ストロンチウム、プルトニウムなどを加えた予測では100万から200万人に達し、しかもそのほとんどが発がんの危険度が高い幼児、とくに0歳児に犠牲が集中し、原子力弱者としての子供たちの存在を明らかにしている。さらに、「原子力」の社会に及ぼす関係性について「弱い人たちを踏み台にした『幸せ』」として、飢餓地域の第三世界への汚染食品の押し付けや都市でなく地方に立地する「原発」など、「原子力」に潜む、人間差別の上にしか成り立たない構造を指摘している。
 加えてまた、地球環境問題に関する著者の主張は、石油や石炭などの化石資源枯渇説、CO2温暖化原因説や原子力発電所が停止しても発電能力に問題がないなどの原子力推進派からの批判を、「共同幻想」として退け、原発こそ「海暖め装置」として機能し、原子力発電所が停止しても発電能力に問題がないこと、最近の日本政府やマスコミは放射性物質が検出されるたびに、「ただちに健康に影響を及ぼす量ではありません」、「ただちに避難の必要はありません」と繰り返すが、著者の主張は、「ただちに」というのは「急性障害は起きない」という意味で、たとえ被曝量がそんなに多くなかったとしても後々被害(晩発性障害)が出ることもあり、アメリカ科学アカデミーの中に放射線の影響を検討する委員会(BEIR)の報告として、「被曝のリスクは低線量にいたるまで存在し、閾値(しきいち)なし」と指摘している。
 最終章に「火力発電の代わりに原発を使えば、石油や石炭の消費量が減ると考えていることは誤解である。原発を動かすためには、すでに述べたように核燃料サイクルと呼ばれる一連の工程が不可欠であり、それらを建設、維持するためにはすべて石油や石炭、その他大量の資材が必要」とある。核廃棄物の気の遠くなる時間の管理も考えれば、「原発」は合成の誤謬であり、著者の脱原発への信念が窺える。
 なお、最新情報を盛り込んだ著書が数冊出版されている。参考資料として、「隠される原子力核の真実」(総史社)、「原発のウソ」(扶桑社)も参照ください。

Author 事務局 : 2011年08月01日11:55

 
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