『暗闇の思想を』

松下 竜一 著 (現代教養文庫)

 「あえて大げさにいえば、『暗闇の思想』ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。…もともと、(原子力をも含めて)発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問い詰める思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。…電力文化を拒否出来る思想が。」「暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬ」「暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へ鎮めていく気がする。」
 松下竜一著「暗闇の思想を」は、1972~74年氏が自ら関わった豊前(大分県)火力発電所建設反対運動の過程を記したものだ。反開発(火電阻止)運動の下で松下氏は、全国の反開発運動の現地(北陸・千葉・北海道)を旅しながら、理論の思索を重ね、すでに上記のような論理を導き出している。チェルノブイリ原発事故後、この本を読んだが、脱原発の思想としての先見性を呈するものと思い出し、再読した。
 福島第一原発事故の放射能漏れ・汚染による人体・環境への影響は今後数世代に亘ると考えられる。チェルノブイリ原発事故後でも「国策」として原発を増設し続けてきた日本にあって、そして今回の福島原発事故後もまだ多くの人びとが「幻想」を持ち続けることを望んでいる中で、福島・東北の現状を目の前にし、一刻も早い復旧を祈りながらも、その復旧の在り方の問題として、新たな価値観の創造こそが求められているのではないかと思う。三十数年前と状況の違いはあるが、現況は基本的には変わらず、「突き抜けて」現代の文化=電力文化を問い詰め、拒否する思想が求められていると思う。
 松下氏は言う。高度経済成長(既にあり得ない!)を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必要不可欠であろう。しかし悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社と良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわなければならぬという恐るべき論理が出てくる。いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都市志向のキャッチフレーズで喧伝される。公害もこわいけれど、確信もなく住民のかしこさでそれを防ぐことが出来るという楽観論があり、「民主的手続き」が支えてきた。
 これらの分析の上に、松下氏は「暗闇の思想」を対置する。「誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるならば、その文化生活こそ問い直さなければならぬ」とし、自らに「自身の文化生活なるものへの厳しい反省」を課すことによって、暗闇は耐えるものととらえる。
 「市民に過ぎぬ我らが、なぜ首相まがいに『国の発展』を唱えたり『国の電力』をまで憂えねばならぬのか。」「『電力危機』が到来するのなら、到来せしめればいい。私たち民衆にとって電力危機即日常生活の破局ではない。危機の正体は、危機をいい立てている者たちにとっての危機だ。」

 その時々での「電力危機(節電・計画停電)キャンペーン」は、電力会社よりの「電力需要論」の一環であり、電力需要の論争に乗ること自体、電力側の土俵に乗ってしまうことを意味している。
 しかし、松下氏は、電力の全面否定という極論を言っているわけではない。経済成長に抑制を課し、今ある電力で成り立つような文化生活こそ考えようということである。
 原発を含めた発電所(電力)の増設をはじめとした戦後の日本の近代化(開発)は、発展・開発を前提とした進歩史観(幻想!?)に立ち、その実一部の人の利益を生み出すために、「国益」・「経済成長」を優先させ、他国の人々と未来世代の命と引き換えにしてきた。人間の営みは決して「進歩・発展」ではなく、むしろ「複合・混在」とか「循環」としてある。昨年のBMW技術全国交流会(山形県)での安田先生の講演は示唆に富む内容だった。
 原発は、半世紀近くに亘り、残念ながら「産業」として社会の一部を構成し、電力文化の前面に位置してきた。今、自らの文化生活を問う暗闇を取り戻す(耐える)思想と行動は、脱原発社会を目指すものとなるのは必然である。電気を数時間、数分、数秒でも自ら止める、止められるという人びとの意思の表示が急務だと思う。それは虚飾を排し、人間自立的な循環型社会を目指すことに通じる。

評者:阿部 均 (株式会社 米沢郷牧場 事業部長)

Author 事務局 : 2011年04月01日23:59

 
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