「生物と無生物のあいだ」

「生物と無生物のあいだ」福岡 伸一 著 (講談社現代新書)

評者 奥地 拓生 (岡山大学 地球物質科学研究センター准教授)

 生物とは何か。昔から数多くの科学者がこの問題を理解しようと努力してきた。本書は分子生物学の分野で研究室を主宰する研究者である著者が、この問題を解説した入門書である。分子生物学とは何か。それは分子と生物を結びつける学問である。もちろん分子は生物ではない。だが分子が組み合わさることですべての生物はつくられている。その間の関係を調べるのが分子生物学であるといってよいだろう。約60年前のDNAの分子構造の発見(つまり遺伝が分子によってもたらされることがわかったこと)によって、分子と生物を結ぶこの学問の幕が切って落とされた。それ以来、分子生物学は20世紀を代表する学問として急成長を遂げ、21世紀のいまに至るまで、自然科学の中で最も活発で、競争が激しく、研究者人口も多い分野であり続けている。本書はこの学問の成長の歴史を、著者の視点から総括した内容といってよいであろう。
 本書の導入部では、野口英世をはじめとする、数人の著名な生物学研究者の群像の紹介がなされる。野口と同じニューヨークのロックフェラー研究所にかつて在籍していた著者は、野口の日本での一般的な描像とは大きく異なる人物像を記す。詳しくは読んでのお楽しみであるが、日本とアメリカでの科学研究者の社会的・組織内的な位置づけが大きく異なることがこの対照を生み出していると考えてみると興味深い。野口の研究と人生は分子生物学の興隆以前の話題であるが、その一部分は、学問的な志を持って海を渡る多数の研究者の人生に、いまに至るまで引き継がれているともいえる。その他の人物群像の紹介を読み進めてみると、野口のようなアグレッシブなスタイル以外にも多様な研究者像があり、彼らの人間臭さがよくわかってくる。このような人物像の紹介の中に、「ウィルスとは何か」など、「生物とは何か」の問題を理解するために必要な概念がうまく織り込んである。これは著者のライターとしての類を見ない筆力のなせる業であり、テンポがよいので途中で立ち止まることなく文章に引き込まれてしまう。数年前にこの本をはじめて読んだとき、このような説明の仕方があるのか、と驚いたのを覚えている。
 本書の中盤では、DNAの発見にまつわる科学者たちの人間臭いドラマが展開される。そしてそこに、ピアレビュー制度などの、科学者が科学者の研究を評価する仕組みの功罪の解説が、やはりテンポよく織り込まれている。それに続いて、DNA以前の(分子生物学ではない生物学の)研究者が考え抜いてきた生物の定義についての解説がなされる。例えば、1930年代にある科学者が、生物が食べた物質が体の中の物質とどのくらいの速さで、どのようにして入れ替わっているのかを調べて、驚くべき発見をした。DNAの発見によって生物の定義は革命的に変わったが、それ以前の学問の中にもとても大事なものがたくさんあるというのが、著者の主張の骨子であろう。
 本書の終盤は、著者がロックフェラー研究所およびハーバード大学でのポスドク(博士研究員、著者の用語では「傭兵」)時代の研究内容と生活風景、および研究の結果から捉えた生物の定義が述べられている。ここで解説される「動的平衡」という概念が著者の生物の理解を単語化したものであるが、これは私にはまだ少し理解しにくい内容であった。またエピローグでは、著者が生物学を志した理由のひとつが、少年時代に身の回りにいた生き物との接触であることが描かれる。トカゲの卵の殻を少しやぶって中をみたのはいいが、その赤ちゃんは腐って死んでしまう。このような個人的体験が、おそらく生物とは何かを理解しようとする著者なりのモチベーションの一つになっている。いまの子供たちが果たしてどこまでそのような体験ができているのか、読みおわってその点が気になっている。

Author 事務局 : 2010年10月01日02:40

 
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