『水とは何か』

上平 恒 著(講談社ブルーバックス)

評者 奥地 拓生 (岡山大学 地球物質科学研究センター准教授)


 水の研究のことを、研究者間で「水商売」と言い表すことがある。この言葉には、水の研究は堅気の仕事ではないという意味が、そこはかとなくただよっている。もちろん、水の性質は多くの科学者が古くから取り組んでいる課題であり、長い歴史を経て何度も確認され、事実として確立した重要な研究成果がたくさんある。だが残念ながら、不確かで再現できない実験結果がもとになって、概念を表す言葉が独り歩きするような研究が、確かな研究よりも多いのも事実である。このような水の研究の現状を知りたい読者に対して、「水とはなにか」を最新・最適の一冊として推薦したい。水という物質がいかに難解で、魅力的で、いちど研究を始めたら足を洗いがたい対象なのかがよくわかるだろう。
 本書は著名な水の研究者である上平氏が、一九七七年に書かれた同名の書の新装版である。旧版への知人の研究者の評価では「読んで内容の古さを全く感じない。それだけ、よく研究され確かめられた基本的なことを書いている」となっている。私も水についての基礎的な勉強をするときに、旧版の「水とは何か」および、同じ著者のいくつかの専門書には大いにお世話になった。そして今回の新装版では、旧版を土台にしつつ、過去の三〇年間の研究の進展により得られた成果がさらに盛り込まれた内容になった。あとがきにある「水科学研究会」での活発な議論の内容がこの改装に貢献していると推察する。
 以下に本書の内容を概観する。第一章は固体・液体・気体の区別をはじめとした、物質を理解するための基本的な概念を物理にもとづいて解説しており、水の科学を理解するためのまさに土台となる。「水商売」といえども、確立された物理的概念に即して他の物質と同じ土俵で研究を進めていけば、きちんとした研究ができるわけだ。読者には本書の途中で内容についていけなくなったときには、もういちどこの章に戻ってきていただきたい。
 第二章は水の構造についての解説である。構造とはつまり、H2Oとして知られる水の分子が、液体の水のなかで互いにどのように結合しており(静的構造)、互いにどのように運動しているか(動的構造)を表す概念である。たとえば一時期にかなり流行した「水のクラスター」は、水の構造について出された概念の一つであり、残念ながら言葉の独り歩きの代表例でもある。クラスターの存在を確認する独立した実験結果は九〇年の提案以後、全く提出されていない。クラスター仮説の根拠となった実験結果(酸素一七のNMR)については、別のプロセスによって完全に説明がつけられる。このあたりの事情も詳しく説明されている。第三章は「水溶液」、つまり各種の物質が水に溶けたもの、そして第四章は「界面の水」の構造の解説である。第二章における純粋な水の科学の拡張として、生物と水のかかわりを考える上で、これらの二つの概念はどうしても必要なものである。
 第五章の「生体内の水」が本書の白眉である。水溶液や界面の水の構造を手がかりとして、生物の体内で水が果たしている役割を解き明かしてゆく。第四章までの内容が比較的確立されているものであるのに対し、この章で語られている研究は現在でも進展が速く、それに伴う将来の内容の変化が予想される。つまりこの章の一部は将来書き変わる可能性がある。読者にはこの章で使われている物理的概念(蛋白質の高次構造、生体高分子の水和、水の構造化、など)の意味するところに特に留意して読み進めていただきたい。以上の概念は第四章までに解説された研究によって確立されたものであり、それを使った生体系の水についての解釈は変わり得たとしても、概念そのものの重要性はおそらく不変(普遍)である。また以上の概念は独立した複数の実験および追試によって確認されてきたもので、それがクラスターとは異なる点であることも読み取っていただきたい。第六章及び第七章は、温度や圧力が異なる世界での生体系の水の振舞いを述べている。この二章の内容も現在急速に進展しているが、そのいくつかの例が応用に重点を置いてわかりやすく述べられている。
 本書の全体を通して、著者の物性物理学・物理化学に対する深い理解と、それを水の科学に応用しようという静かな情熱を感じ続けることができる。残念ながら一読して理解ができるわかりやすい本ではない。言葉の意味を考えながら数回読み返す必要もあるだろう。水の科学とはまさにそのようなものである。もし今後、水を語るわかりやすい言葉に出会ったら、本書をもとに詳しく吟味してみる、そのような使い方ができる本である。

Author 事務局 : 2009年11月01日02:49

 
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