『暴走する資本主義』

『暴走する資本主義』ロバート・B・ライシュ著 東洋経済新報社刊

評者 高瀬幸途(太田出版)

 誰でもなさっていることでしょうが、一冊の本を読んで評価するには、関係する(と思われる)書籍群と引き比べながらあれこれ推測を試みてみます。不案内な領域に関わる本であれば、勉強の実をあげるためにも必須のことでしょうが、読書の楽しみの一つは、その推測の羽を広げることにあるのではないでしょうか。
 七〇年代初頭までのアメリカ社会は、資本主義と民主主義(福祉国家)が調和していたが、大企業が多国籍化し世界市場での企業間競争が激化するにつれてその調和が崩れ、レーガン政権と冷戦の終わり以降、資本主義が民主主義を追いやって社会的劣化が進んできた、その傾向が今や危機的状況を迎えている、そういう内容の本書を読んでいて、私が連想した本は次のようなものです。
・『人々はなぜグローバリズムの本質を見誤るのか』水野和夫著
・『吉本隆明の時代』糸圭秀実著
・『恐慌論』宇野弘蔵著
 クリントン政権の労働長官であったライシュ(カリフォルニア大学教授)は、オバマ政権でも政策的関与をすると言われていますが、彼がアメリカ社会に見いだしたものを、日本経済に即して分析したものが水野さんの本です。日本の企業(とそこに属する労働者)の五パーセントがグローバリズムの勝ち組として生き残り、八割は負け組として沈滞衰亡の道を歩む、という明解な結論は小さくない反響を呼び起こしました。ライシュの場合、民主主義をかえりみない大企業の行動(社長のボーナスが数百億円!)はより安価な商品を求める消費者と高配当を求める投資家(年金をもらう人や株を買う労働者を含む)に支えられてある、という指摘をします。一方の水野さんは、福祉国家が崩れ民主主義が衰退するのは先進国共通の運命であって、それがポストモダン状況に他ならないことになります。世界経済の重心は、これからモダンをめざすインドや中国などの新興国群に移行するのであって、一六世紀以来続いてきた世界史と世界経済の地勢図が書き換えられる、という展望に帰結します。ライシュが構想する資本主義と民主主義の新たな均衡は見果てぬ夢ではないか、と水野さんは判定するのではないか。したがって、オバマ政権はアメリカの苦境を救えない、ともいえるのでは、という勝手な推測をするのが、素人の読書の快楽でありましょう。
 この本の原題は「Supercapitalism」です。「暴走する」という訳語を採用したのは理由があるのでしょうが、そもそも資本主義は暴走するものではないでしょうか? 原題を素直に訳せば「超資本主義」ですが、この言葉は八〇年代に吉本隆明が多用したものでしょう。その含意は高度資本主義の成立の中で貧困と階級対立が消え、消費の自由こそが最高の規範になったというもので、もちろんハイパー(超)資本主義を礼賛しています。六〇年安保闘争で「革命的思想家」としての声価を確立した吉本が、どんな経路で単なるリバタリアンになってしまったのか、糸圭さんは前記の本で詳細に跡づけています。
 宇野弘蔵の恐慌論は半世紀以上前の著作ですが、その真価が長く忘却の中に置かれてきたものです。単なる景気循環ではない恐慌が資本主義には不可避であることを解明した画期的な研究ですが、現下の金融恐慌の進展の中で真剣に参照されるべきではないでしょうか。宇野原理論からすれば、ライシュのいう「資本主義の暴走」なる認識は児戯に等しいものでしょうし、吉本の認識も幻想領域の相対的自立性に依拠する文学主義ということになるのでしょう。
 一介の編集者がこんな生意気かつ思いつきの読後感をいだけるのも、参照できる著作の執筆者たちのお陰であり、学問文化の恩恵ではあるとして、さて明日からの仕事は不景気の影響を受けないですむのかどうか、農業の未来はどうなるのか、という問題は厳然としてありますが、「使い捨て時代を考える会」の槌田劭さんのひそみにならっていうと、この国では消費の過剰と生産の過剰、さらに資本の過剰という大問題に直面していること、その視点から始めることが必須であるように感じられますが、いかがでしょうか。

Author 事務局 : 2009年01月01日10:30

 
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