『アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡』

『アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡』
 田辺陽一 著 小学館 2006年

多摩川は東京都の西の境界を流れる川であり、東京を象徴する河川の一つである。その多摩川に1990年代になって百万匹ものアユが遡上するようになった。川と魚の観察が大好きな著者(NHKディレクター)が、番組制作かたがた多摩川のアユを追ったドキュメントが本書である。

「こんな場所に、こんな魚が・・・」という話ではなく、この大都会の川に生態系のエネルギーが満ち溢れていた。アユの復活はその象徴である。この発見が著者を多摩川に夢中にさせた。
 それにしても、かつて都市河川の汚染の代表格だった多摩川に、どうしてこんな奇跡が起きたのだろう。本書はおのずと多摩川とその流域の歴史を遡ることになる。多摩川の汚染は同じく都市公害の象徴とはいえ、工場廃水が主たる原因ではなかった。流域は名だたる東京近郊の住宅開発地域である。高度成長期以降人口が急膨張した( 1970年までの12年間に人口が倍増して197万人に)。屎尿処理場も増えた(この間、河川水のアンモニア性窒素は100倍の6pp mに)。
 こうして多摩川は失格河川の代名詞のようになったのだが、ここにアユが戻り河川生態系が復活したのは、要するに水質がよくなったからである。水質汚濁改善の要因は、一つには住民運動。政治意識の高い新興住宅地ということもあっただろう。とはいえ、「善良な無関心」層というのが都市市民の実情である。住民運動に加えて大きかったのは、自治体と国による集中的な施策であった。多摩川の汚染は東京の、ひいては国の汚名である。まず、革新知事ブームの先がけとなった美濃部亮吉都知事( 在任1967-79年)が、流域下水道の建設に乗り出す。ちょうど1970年はわが国の「公害元年」ともいうべき年であった。ついで、建設省の多摩川河川環境管理計画が実施され始めた(1980年)。つい最近(1997年)33年ぶりに河川法が改正されて、治水利水の河川管理から環境保全へと考え方がシフトしたが、多摩川河川環境管理計画はこの先がけだといわれる。こうして、都市下水の普及率はほぼ100パーセント、水質も今世紀に入ってBOD2pp m前後と劇的に改善された。現在、多摩川の水は中流域で半分以上を下水処理水が占めている。いってみれば人工の川であり、しかしそれでも生態系は甦る。アユの遡上が百万匹を記録したのが1993年であった。
 水質汚濁対策に加えて、面白いのは魚道の研究である。多摩川も多くの(農業用水用の)取水堰によって分断されている。そこに作られた魚道がぜんぜん機能していなかった。アユの視線で見た魚道の研究から始めなければならなかったが、わが国には魚道研究の実績がほとんどなかったのだという。
 さて、このようにして、人工の川に生態系が甦った。本書はその貴重な記録である。だがそれにしても、国と自治体が面子にかけて多摩川をきれいにする努力を集中したことに、あらためて気付かされた。新たに建設した魚道には、30億円の建設費を投入したものもある。それでも、多摩川に百万匹のアユが遡上するようになるのは、ごく最近の出来事である。工場廃水が汚染の原因なら、対策が効果をあらわすまでの時間はもっと短い。生活廃水、とりわけ多摩川のような大規模都市開発地域では、環境保全に金をかけても効果がでるまでのタイムラグが大きい。この事実に改めて驚かされた。かくて作られた多摩川の河川生態系は人工の楽園といえなくもない。それもまた必要なことであろう。
 都市公害により汚染した川をきれいにする。あるいは、川上に里山の自然を発見してこれを保存する。きれいな川や里山は、しかし、自然と人間の歴史(風土)からいえば、選ばれた点と線である。これにたいして、環境保全運動のある時期から、「流域」ということが強調されるようになっている。点と線を、流域に暮らす人々の生活の歴史にまで拡張する。こう考えるならば、多摩川はむしろ公害と戦った歴史の成功例であろう。これほどの大都会流域でなく、住民の大部分が慣れ親しんでいる地域の流域を選んで、もう一つの典型例を作りたいものである。

評者 長崎 浩(BM技術協会会長)

Author 事務局 : 2007年04月06日11:11

 
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