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<title>Book Review</title>
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<modified>2008-11-09T11:03:35Z</modified>
<tagline>BM技術協会は、BMW技術を研究、活用、普及し、「自然観を変え、技術を変え、生産の在り方を変える」ことを目指すものたちの全国組織です。</tagline>
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<title>『建築がみる夢』</title>
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<summary type="text/plain">『建築がみる夢』（講談社） 『笑う住宅』   （ちくま文庫） 石山修武 著  評...</summary>
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<dc:subject>977『建築がみる夢』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>『建築がみる夢』（講談社）<br />
『笑う住宅』   （ちくま文庫）<br />
石山修武 著 </p>

<p>評者　高瀬 幸途 （太田出版）</p>]]>
<![CDATA[<p>　この夏の終わりに、世界遺産の五箇山を見学する機会があった。合掌作りの茅葺き屋根は見覚えがあったけれど、ガイドの説明を聞いて驚くことが少なくなかった。一番驚いたのは、あの大きな合掌作りは住居であるとともに工場であり、江戸中期頃に誕生した建築物だということ。伝統的村落の一奇観というべき五箇山が、養蚕と紙漉という家内事業（経済）の産物であり、国内商品流通に先導されたものだったとは。しかも、大家族ではなく、三世代同居の家屋なのであって、米作りの集落ではなかったが故の発明品だとは。<br />
　百聞は一見に如かず。「伝統」とか「遺産」の背後でことを定めている経済（建築）の合理性への注視を常に忘れないこと！<br />
　山梨県白州町横手周辺では新築の民家を見ると、××ホームなどによるプレハブ住宅と地元の大工による瓦葺き切妻式家屋が混在しているが、都会ではプレハブ住宅が圧倒的だ。二〇年前から、このプレハブを「ショートケーキ感覚」だといって批判し、「秋葉原感覚で住宅を作ろう」と提言実行してきた建築家が石山さんだ。<br />
　建築家とはほとんど付き合いがないし、建築についての素養もない私が石山さんの著作を推薦するのはおこがましいが、これは見果てぬ夢のようなものだけれど、白州町横手に小屋を建ててみたいと思っていて、さてどんな小屋にしたいかとあれこれ探っていてぶつかったのが、日本建築界を代表する鬼才と呼ばれるこの人なのだ。石山さんの著作を何冊も読んで驚嘆することの連続で、ついには早大理工学部の研究室（石山さんは教授もやっている）を訪ねることになり、ついでといっては失礼だが、季刊『ａｔ』への原稿執筆もお願いしてしまった。（その原稿が『ａｔ』一三号に載っている）。<br />
　光栄なことに、初対面の私を「押し込み強盗」だと呼んでくれたのだが、お話を聞いてますます引き込まれてしまった。「工業化社会の余剰な生産力の典型としての様々な工業化製品を住宅用品として転用しながら、工業化時代の小屋づくりをめざす」ロビン・フッドの建築家だと二〇数年前に書いた石山さんは、この夏、「全ての都市の建築、都市住宅の屋根に畑を作った方がいい。少なくともそれを目指すべきだ。全ての建築はエネルギー供給体になり得るし、又同時に食物を作る場にもなり得る。都市は消費の自動装置である現実を脱け出る必要がある」と宣言し、建築中の自宅を世田谷村と自称して野菜を作っている。そんな強烈な建築家が目下日本各地で展開しているのが、農村ネットワーク計画なのだ。その概要は『建築がみる夢』で紹介されているが、ウェブサイト上にある石山修武研究室にはより詳しい報告があるので、是非お訪ねになってほしい。ついでに、現在進行中の一二の建築設計プロジェクトの奇想天外かつ未来を切り開く展望をご覧になっていただきたい。<br />
　端的にいって、石山さんの設計する小住宅は安いのだ。徹底的に住民の立場から経済合理性を貫く。資本主義の成果を利用・転用しまくれ、といって、実行してしまう凄い建築家なのだ。拍手。<br />
　とはいえ、施主から石を投げつけられたことがある建築家という噂を聞くと、横手の私の小屋の設計をいつ頼みにいくのか、一日延ばしのためらいの中にいる私なのですが。</p>]]>
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<title>『転機に立つタイ 都市・農村・ＮＧＯから』</title>
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<modified>2008-10-06T00:46:02Z</modified>
<issued>2008-10-01T00:44:29Z</issued>
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<summary type="text/plain">新津晃一　秦辰也　編（風響社） 評者　山本 伸司 （ＢＭ技術協会常任理事・パルシ...</summary>
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<dc:subject>978『転機に立つタイ 都市・農村・ＮＧＯから』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>新津晃一　秦辰也　編（風響社）</p>

<p>評者　山本 伸司 （ＢＭ技術協会常任理事・パルシステム生活協同組合連合会）</p>]]>
<![CDATA[<p>　平成の米飢饉といわれた一九九三年の翌年、初めてタイに行った。㈱パシフィック・トレード・ジャパンの山本寛幸会長にタイを見ませんかと誘われたことがキッカケだった。当時のパルシステムは、海外との関係はフィリピン・ネグロスのバナナをオルタートレード社のコーディネートで民衆貿易として唯一扱っていた。<br />
　タイ訪問団は、生協の関係者と無茶々園の片山代表など生産者も含めて三〇名ほどで結成した。訪問先は、バンコクを基点に東北タイの貧しい農村地帯のＮＧＯによる開発村での民泊、北部チェンライまでの山岳地帯、そしてバンコク港に広がるスラムのクロントイである。<br />
　この視察中、タイ国協同組合省課長の講演、チュラロコン大学教授の講演などを行い、村開発での日本人指導による養鶏やちょうちん手作りの田中さん、そしてクロントイスラムでは、民主化運動リーダーのプラティープさんのお話も伺うことが出来た。こうした行程で参加者は様々な議論を行うこととなる。山本会長いわく、バスの中のバトルロイヤル。タイ米の輸入是か非か。都市と農村格差をどう受け止めるか、スラムと民主化、王政と民主化、経済発展と格差問題などなど。参加者が、生協関係者と生産者な割には実に多様な意見が飛び出し、一部過熱化して感情的になる場面もあった。<br />
　この訪問から、一九九九年タイのバナナ産直が開始されバンラート農協との産直協議会の結成、そしてトゥンカーワット農園経営農民会との産直提携が築かれている。</p>

<p>　さて、この「転機に立つタイ」は、曹洞宗国際ボランティア会事務局長の秦辰也氏と新津晃一国際基督大学教授による編集。一九九四年三月、八月、九五年八月と三回に渡った「アジア教育シンポジウム」の記録である。タイ側からは、プラティープさんをはじめ、農民運動リーダー、スラム改革運動者や大学教授など。日本側からは、研究者やＮＧＯなどの参加をもって構成されている。転機とは、タイの目ざましい経済成長とそのもたらした社会構造の変化のことである。これは、森林の伐採、農村の疲弊、都市スラムの膨張といった問題から仏教国ののんびりとした生活価値観を破壊するかの文化的変化をも巻き起こしている。こうした実態を様々な角度から照らし出し民衆の側からの問題解決を探ろうとする試みとなっている。<br />
　特に、東北タイの農民運動指導者パーイ・ソーイサクラーン氏のイトーノーイ運動の言葉が面白い。イトーノーイとは山刀のこと、これで経済的な貧困問題や売春問題を解決すべく切り開いていくという。自分で農作物を作り自分で食べる。そして生活することを勉強しているという。換金作物に頼らない農民としての誇りを語っている。<br />
　最後に、アジア農民元気塾の小松光一氏はいう。都市と農村、そして全ての貧困を生み出す仕組みは、世界システムに原因があるという。これを解決するのは、「離脱」だという。これは「産直革命」だと。都市と農村の関係性をもう一回作り変えていこうという実践だと指摘する。</p>

<p>　さて、今年もパルシステムは、産直協議会総会をバンラートで開催した。年度取組みを報告し二〇〇八年度の方針も協同で確認している。着実にタイの生産者との連帯を積み重ねている。ここに職員や理事も参加し生産者の家に民泊させていただいた。言葉の通じない日本人を暖かくもてなしてくれた生産者たちに感謝すると共に、豊かなトゥンカーワット農園の混植の森の朝の清涼な空気は本当に満ち足りた思いを感ずることが出来た。</p>]]>
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<title>『鉄が地球温暖化を防ぐ』</title>
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<modified>2008-08-31T16:35:02Z</modified>
<issued>2008-08-31T16:16:24Z</issued>
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<summary type="text/plain">　畠山重篤　著（文芸春秋） 評者　奥地拓生（岡山大学　准教授）...</summary>
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<dc:subject>979『鉄が地球温暖化を防ぐ』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　畠山重篤　著（文芸春秋）</p>

<p>評者　奥地拓生（岡山大学　准教授）</p>]]>
<![CDATA[<p>　昨年度の松島でのＢＭＷ技術全国交流会で「森は海の恋人」である、という楽しい内容の講演をしていただいた、宮城県気仙沼市の漁師・畠山重篤氏が、新しい本を執筆された。この講演と同じ題名の畠山さんの本は良く知られている。その続編である畠山さんのいくつかの著書のうちでも、思想がもはや漁業の世界からは抜け出して、いわば普遍化された内容になったとも言えるものが本書であろう（私がこのように評するのは僭越であるが）。今回の題名も「森は海の恋人」のように斬新だが、それは二〇年前に著者が松永勝彦先生という科学者から受けた「鉄が牡蠣をはぐくむ」という説明に触れた際の驚きを、ひろく普遍化して読者に伝えるためのものである。<br />
　牡蠣の養殖場である気仙沼湾の海としての豊かさを取り戻すために、著者は手探りで湾に注ぐ川の源流の森の重要性に行き着き、そこに木を植える運動を開始した。その直後に北海道大学水産学部の松永先生を函館に訪ねて、源流の森は川を通して海に鉄を供給する役割を果たしていることを教わる。これで手探りで得た答えが正しかったという裏付けが得られたのだ。鉄と一言で言っても、生物に吸収されやすい形態とされにくい形態があり、森は前者を作り出す力を持っている。このような鉄の形態の違いについては、私もそこまで考えたことはないが、言われてみると自然に理解できる。そのような視点で岩石や鉱物を見ることがいかに重要かを教えられた。<br />
　さて生物が使いやすい鉄の形態があるという事実からさらに踏み出すと、そのような鉄を与えれば生物を新たに育てることができる。つまり鉄はすぐれた肥料になる。ただし鉄が良く効くのは陸上の生物に対してではなく、海洋生物、特に植物性プランクトンと海藻に対してである。一般的に言って、海洋は鉄が極端に不足している環境にある。そこで生物が使える鉄を与えることで生産性が大きく高まり、面積が広いので大量の二酸化炭素を吸収することになり、地球温暖化をも防ぐことができるようになるという。<br />
　本書は畠山さんの独自の構成によって、鉄と生物の深い関係が正確かつ楽しめるように解説されており、一般の読者に良くわかる内容になっている。森と海の絆の話から始まり、地球生命を育んだ鉄、鉄は地球温暖化を救う、鉄仮説から鉄理論へ、と解説は進んでいく。このあたりは何とか「想定内」の内容であったが、そのあとの「実証された鉄の環境利用」の章は特に刺激的でびっくりした。鉄を使って漁業の生産性を大きく高めた実績を持つ人たちが日本のあちこちにいて、その人たちと畠山さんが交流される話がいきいきと出てくる。畠山さん自身が行った鉄を使う実験の話も面白かった。さらに、新しく作った海藻を利用してほかの問題も解決しよう、という提案がされる。そして最後に、地球の歴史上で海中の鉄がもっとも活躍した時代につくられた、オーストラリアの鉄鉱床を訪ねた話が出てくる。この鉄鉱床は地球の歴史を調べる上でとても重要な場所であり、もちろん私も名前は知っている。機会があれば訪ねてみたい場所であったが、実際に行かれたとなるとまたびっくりであった。「鉄が牡蠣をはぐくむ」という言葉は、畠山さんにとってそれほど大きな衝撃であったのだろう。今年の全国大会で再びお会いできることが今から楽しみである。</p>]]>
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<title>『「水」戦争の世紀』　『水戦争：水源資源の最終戦争が始まった』</title>
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<modified>2008-08-01T04:09:16Z</modified>
<issued>2008-08-01T04:06:50Z</issued>
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<summary type="text/plain">「水」戦争の世紀 モード・バーロウ、トニー・クラーク著　　集英社新書 水戦争：水...</summary>
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<dc:subject>980『「水」戦争の世紀』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「水」戦争の世紀<br />
モード・バーロウ、トニー・クラーク著　　集英社新書</p>

<p>水戦争：水源資源の最終戦争が始まった<br />
柴田明夫　著　　　　　角川ＳＳＣ新書</p>

<p>評者　竹内　周（Ｒａｄｉｘの会）</p>]]>
<![CDATA[<p>　二一世紀は水の時代なのだそうだ。どちらの本も豊富なデータと事実の連続で勉強になった。水が豊かな日本にいて、読めば何億トン、何兆トンという天文学的な数字ばかりなので、今世界で進んでいることを想像するのは難しいのだが、石油や穀物のことで世の中全体がヤバイな、と思っていたら案の定、水もヤバかったのだ。</p>

<p>　二冊とも、まず世界の水資源の危機的状況を教えてくれる。地球にある全部の水のうち人間が使える淡水がもともと極めて少なく、農業工業用の灌漑、世界規模の汚染、気候変動という要因によって、その『使える水』が急激に減少していることを指摘する。<br />
　次に多国籍企業の活躍だ。ミネラルウォーターのみならず、持てる国と持たざる国の格差が水の輸出入市場を現出させ、そのインフラとしての国際パイプラインや、巨大なプラスティックの袋を海輸するウォーターバッグなどの開発に投資が進む。<br />
　各国の水道事業もターゲットにされていて、水源管理、浄水、集配保守など運営を民間に任せ、効率化とサービスの向上を図る民営化の流れが世界の趨勢になりつつある。<br />
　これら背景に水利用についての世界コンセンサスの醸成があり、多国籍企業は様々に、国際機関へのロビー活動を展開しているそうだ。水企業関連ファンドも順風満帆の好況を呈すなど、地球に有限の資源としての水の争奪戦というより『利権の争奪戦』が展開されているというのだ。<br />
　両書は「世界水フォーラム」についても採り上げている。これは民間シンクタンク・世界水会議 (World Water Council, WWC)によって運営される水問題を扱う国際会議で、世界の水政策について議論することを目的としつつも、水関連企業との結びつきが強いことも含め、各国市民団体からの批判も受けている。世界の水企業に有利な『コンセンサス』を醸成するホットスポットと見做されるからだ。<br />
　『「水」戦争の世紀』は、こうした状況に重要な問題提起を行なっている。「水は誰のものか？」。水が人の生命に不可欠だとして、それは人間の基本的ニーズなのか、それとも基本的人権なのかと問い、多国籍企業が主導する「世界水フォーラム」に懐疑的、というより対抗する立場で、水の権利を守るＮＧＯの国際連携をこの問題の解決方法として結論する。<br />
　水を基本的人権とする立場は大切で、その政治的な立場を応援したくもなるが、グローバル経済を止揚する力を持ち得るのかという疑問は残る。<br />
　他方『水戦争：水源資源の最終戦争が始まった』は「最終的には矛盾する双方の言い分を統合する思想が必要であろう」と淡白だ。むしろ現在の資源マーケットの状況と七〇年代との類似点を論じ、資源高騰時代は日本の出番、絶好の機会などと、どうも人権より日本の経済として水を論じているように思える。平明に論点を抽出するが、いかんせん商社的。食糧自給率の低い日本が、食糧に形を換え大量に水を輸入している事実が、水問題としても国際社会から批判を受ける状況など、傾聴に値する知見は、ある。しかし水ビジネスのグローバル化を容認して暴走を止める力を国に期待するのもムリではないかとも思う。<br />
　いずれにせよ、二冊両方を読むことをオススメする。いいかげん勘弁しろヨと言いたくなるが、明日は我が身の問題でもあるのだ。基本的には足元を見つめることが大事だ…。</p>]]>
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<title>『パルシステムの産直「産直論編」』</title>
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<modified>2008-07-09T03:39:09Z</modified>
<issued>2008-07-01T03:38:35Z</issued>
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<summary type="text/plain">編集：２１世紀型生協研究機構 発行：パルシステム生活協同組合連合会　 評者　　Ｎ...</summary>
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<dc:subject>981『パルシステムの産直「産直論編」』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>編集：２１世紀型生協研究機構<br />
発行：パルシステム生活協同組合連合会　</p>

<p>評者　　ＮＰＯ野菜と文化のフォーラム　理事長　今野　聰</p>]]>
<![CDATA[<p>　産直を考えるホットなニュースに出合った。二〇〇八年五月二三日付け日本農業新聞の全面広告、「イオンと共同で『食育の場』作り」である。産地は秋田県ＪＡ秋田おばこ管内農事組合法人（生産者一三〇戸）。約一九〇ヘクタールで、九〇〇トンの米を生産する。この一括販売を「減農薬・減化学肥料栽培」で「こだわりの安全・安心米」というのである。「産直」は謳われていない。<br />
　パルシステムの産直論は、本書で読むまでもなく、国産農産物の全般にわたる。とりわけ米の産直には長い歴史と挑戦がある。だからこそ、このニュースはホットなのだ。<br />
　もうひとつ。さる五月二二日、ＮＰＯ野菜と文化のフォーラム総会で、「提携」をめぐる論戦があった。つまり、「提携」では、一〇〇ヘクタール規模の野菜生産で一〇ヘクタールだけ有機栽培に転換する決断などには合わないのではないかという議論だった。珍しく「提携」生みの親である「一楽照雄思想」まで飛び出したからである。<br />
　明らかに国産をめぐって事態は大きく動き、歴史的転換が進行している。こういう時、本書の提起する「産直論編」、いわば「原論」のもつ意味は大きい。論点を五つに絞る。<br />
　第一は、すでにふれた「提携」問題である。第一章冒頭で、「食料と農業は統一的に把握するのが基本であり・・・生産者と消費者の新たなパートナーシップを確立」という。ここでは「消費者対生産者」という「対立の図式ではない」と明確にする。丁寧に「提携」ということばをよりわかり易くする。だからそれで良いのかどうかを論議すれば良い。<br />
　そもそもパルシステムの前身「首都圏コープ」は「原型からの産直」であった。一九八〇年代に、この用語に接した時、大いに感動したことが忘れられない。「原型・原形・原色」などは、出来上がり「総菜」商品を一切含まない。家庭で各自が調理すれば良いことを含意する。そういうこだわりだった。だが、時代は変わった。米は「おにぎり・弁当・寿司」コーナーになり、コンビニの主力商品なのだ。これと戦ってこそ生協の産直であろう。だが本書では、「無洗米」論争にもふれ、反対論を紹介しながら、肯定する。原論としてこういう触れ方が魅力的である。<br />
　第二に、産直に向かないという「チョイスバイイング」論。量販店に多い「販売対象にとってよいものだけを選んで調達」する方法を根本的に批判している。だから「原論」なのだ。一般に店舗形態では「よいものだけ」である。「売れ筋」発見ともいう。同一商品について棚で一日三回転する商品と、週三回転しかしない商品を比較すれば明らかである。こうして「バイイングパワー」、つまり「商品大量仕入れ力」だから、店舗主導の価格形成となり、押し付け問題になる。<br />
　一方、パルシステムは店舗ゼロではないが、原則として運営しない。では店舗型生協はどうか。「他の生協においても、商品を調達する手段として産直が主流にはなりえない状況が続いています」とやや遠慮気味である。一九八〇年代の生協運動は、生協規制と戦かった。こうして「生協の社会的ポジション」とは「多数者の生協運動」を展開することだった。ついに一九九〇年、日本生協連とは別に生協店舗近代化機構を設立した。だが成功しないで今日に至った。しかし全国生協全事業量の半分は店舗事業である。そこには否応なしに「チョイスバイイング」が日常化している。その代表例が中国からの輸入品である「ＣＯ・ＯＰ冷凍餃子」でもあろう。今や刑事事件化しそうな雲行きなので深入りしないが、日本生協連はこれを産直商品には分類していない。むしろ「チョイスバイイング」商品であろう。そういう語論の展開が求められる。<br />
　第三に、産直四原則にある「生産者と組合員相互の交流ができること」について。これはむしろ農協・生協のノウハウといってもよかった。ただし産地はなにも農協一本とは限らない。一方消費者は個々ばらばらという訳にはいかない。さらに「交流」は商品から始まって、産地援・縁農、消費地意見交換会、公認確認会など幅広い。今や「食育」までもある。<br />
　私自身の三〇年にわたる交流体験では、どこの産地も女性の働き手を前面化することに不慣れだった。消費地は女性、産地は男性。その組み合わせが良いのだと変な理論も横行した。一方では、「男女共同参画社会」が声高い。どこかすっきりしない。だが、今や「食育」が前面化してきた。大手量販店の事例は先述した。ここはあまり、原論にこだわる話ではなさそうだ。<br />
　第四は、生産技術体系に関する。一般に特定生産者集団の「独自農法」と言っても良い。地域内慣行栽培・飼育体系に対する独自性といっても良い。本書では、第二章「安全・安心・環境保全への取り組み」に編集されている。ここでは「ふーど」という共通語が形成されつつある。農協では一般に行政との共同作業が多いから「適地適作」プラス「環境保全」である。どうしても地域独自性が足りない。地域内一般慣行が第一義にされる。<br />
　たまたま、さる四月に逝去した伊藤幸吉・元米沢郷牧場代表の年譜に重なった。ＢＭＷ技術導入でほっとしたらしい一九九〇年代末、私は現地を訪ねた。その時、なんと余裕のある説明かと、聞きほれた。同じ山形県高畠町内には、星寛治氏らの農薬を一切使わない伝統的慣行稲作が、有機農業として磐石の支持を集めていたからである。これは一例である。本書では、さまざまの農法を知る機会にもなる。そういう配慮が嬉しい。<br />
　第五はやや難問である。本書にもコラムで取り上げられている「フェアトレード・国際産直」（四二ページ）である。フィリピンのネグロス島産バランゴン種バナナの開発に取り組んだ一九九〇年初頭の苦闘、それが物語り風に書かれている。生協運動にも先駆者がいたというロマンは、今日の国際産直を「フェアトレード」つまり「公正民衆交易」に進める展望である。それこそ民衆収奪に対置した運動を措いてはありえない。だが、「国際産直」という枠組みプラス「フェアトレード」で解けるだろうか。それこそ「草の根交流」ではないのか。<br />
　最後に、続くシリーズ『記録編』（二〇〇八年四月刊行）、『物語編』（同五月刊行）に期待する。</p>]]>
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<title>『「食品の裏側」－みんな大好きな食品添加物―』</title>
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<modified>2008-06-03T06:25:05Z</modified>
<issued>2008-06-01T06:24:11Z</issued>
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<summary type="text/plain">安部 司 著（東洋経済新報社）　 評者　　ＢＭ技術協会　常任理事　山本　伸司...</summary>
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<dc:subject>982『「食品の裏側」－みんな大好きな食品添加物―』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>安部 司 著（東洋経済新報社）　<br />
評者　　ＢＭ技術協会　常任理事　山本　伸司</p>]]>
<![CDATA[<p>安部司さんの講演会の波紋<br />
　実は、パルシステム連合会で安部司さんの講演会を企画する商品企画部に対して、品質保証部が噛み付いた。安部さんは、「たんぱく加水分解物」を問題にしている。しかし、パルシステムは化学調味料こそ使っていないが、たんぱく加水分解物を使用しているのだから困ることになると。確かにそうだった。<br />
　しかし、講演会は実施され大勢の組合員が参加した。大盛況だった。当然、たんぱく加水分解物の扱いについて、質問や意見が集中した。ところが、指摘されたように加工食品からこれを抜くのは簡単ではない。野菜も肉も原材料というのは、本来、味にバラツキが自然に有る。これが、実はクレームの原因にもなる。それだけではなく、多くの加工食品メーカーは、これを抜くと売れないと考えており、この排除は製品の買上げリスクも伴うのだ。パルシステムの独自のプライベートブランドから徐々に抜いているがまだ数点抜けないでいる。この講演会を受けて、たんぱく加水分解物の使用管理をすすめて改善に努力することとなった。<br />
魔法の粉<br />
　講演会の圧巻は、実演だ。白い粉を何種類も小さじで溶かし、あっという間にジュース、ラーメンスープを作ってみせる。そのたびに、驚きの声が上がる。<br />
実は、以前ある香料会社を訪問して、驚いたのは有名食品メーカーと取引しており、匂いや味を合成していることだった。これがすごい。瞬く間にどんな匂いも味も作ってしまうのだ。食べ物というより化学薬品による合成。これを目の当たりに見ると、加工食品への素朴な信頼が音をたてて崩れる。なんだ、これはと恐ろしくなる。<br />
七五％の人が添加物を支持している<br />
　ところが、安部司さんはこうも指摘する。財団法人福岡都市科学研究所の調査による消費者アンケートを分析し①積極型②健康志向型③無関心型④分裂型の集計で、③と④の合計が七五・四％にも上ることを紹介している。七五％が安全性に無関心だということだと結論付け、逆の見方をすれば農薬や添加物を支持していることだという。<br />
　「メーカー＝加害者」ＶＳ「消費者＝被害者」という図式は成り立たない。簡単便利、安さに引きづられる消費者もまた添加物蔓延の片棒をかついでいると言っていい。というのだ。<br />
　添加物で蘇る漬物、くず肉が化ける特売ハム、安くて簡単な練り製品などなど。その裏側を見ること、台所に無いものの使用に疑問を抱くべきだと提言する。<br />
どう行動するか<br />
　食べることは命をいただくこと。簡単には食は手に入らない。育て、料理し、片付けることを推奨している。<br />
　そのうえで、小さな選択のひとつひとつが、日本の豊かな食文化と日本人の心を取り戻す大きな流れにつながるのだ。つくる人、売る人、食べる人―その三者に「つながり」を取り戻したい。それが切なる願いですという。<br />
　一見、食品添加物をセンセーショナルに取上げる本のように見えるが、実に真面目な主張の本だと思う。<br />
　そして本来、真の贅沢とは、農を営み、食を育て、頑健な身体を育てることだと思う。残念ながら多くの人たちがそうした暮らしから遠ざけられている。今、こうした暮らしのあり方に疑問が呈され、こうした主張の著作に多くの支持が集まってきている。ここに、本物の農と食、暮らしを提案、実践するＢＭ技術協会の果たすべき役割が見えてくる。</p>]]>
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<title>『弱者のための「エントロピー経済学」入門』</title>
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<modified>2008-05-07T16:05:16Z</modified>
<issued>2008-04-30T16:04:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">槌田　敦 著（ほたる出版） 評者　高瀬 幸途（太田出版）...</summary>
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<dc:subject>983『弱者のための「エントロピー経済学」入門』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>槌田　敦 著（ほたる出版）<br />
評者　高瀬 幸途（太田出版）</p>]]>
<![CDATA[<p>　二十年ほど前に亡くなった経済学者に玉野井芳郎がいます。主要な著作は『玉野井芳郎著作集全四巻』（学陽書房）で読めますが、晩年「生命系の経済学」を提唱し、廃物・公害・生態系を含む経済学構築を目指しながらも、道半ばで終わりました。<br />
　玉野井の最後の論文は、「現代の危機がエントロピーの危機である」という視座の必要性を強調し、次のように語っています。「経済学は物理学を暗黙のモデルにしている。しかし、物理学にはふたつの立場がある。ひとつは、ニュートンを代表とする可逆的対称的力学であり、もうひとつはカルノーに始まる非可逆的非対称的熱学である。これまでの経済学がモデルにしたのは前者の範囲であった。そして、巨視的な物質がエントロピーの法則により不断の劣化にさらされていることを忘れて議論している」<br />
　エントロピーは十九世紀半ばに熱力学から生まれた物理量で、物や熱の拡散の程度を示す状態量、それが不可逆的に増大するという法則性です。玉野井は、そのキーワードを槌田敦から学び、いわば共同研究として「広義の経済学（狭義の経済学は市場経済・商品経済を中心とする）」を作ろうとしました。<br />
　玉野井・槌田はエントロピー学会の創設者たちですが、玉野井なき後、槌田は七十五歳になる今日まで、精力的に研究を続け、いわば玉野井の衣鉢を継いで本書に見られる「疲弊した社会を修復・再生するための処方箋」としての経済学を刊行したわけです。<br />
　本書は大きな本ではありませんが、個人の生命、供給・需要、貿易、生態系、気象のメカニズム、開放定常系として地球など、微小なものから巨大なものまで、生命から非生命まで、それらをまるごと貫く視座としてエントピーの法則を使っていて、まさに体系といえる内容豊富なものです。エントロピー学者による資本主義論ですが、専門用語も少なく数式もありませんから、誰にでも読みやすいですし、「目から鱗」の記述がそこかしこにありますのでご一読をお勧めします。<br />
　例えば、「自然」という言葉がもたらすイメージは多様でしょうが、著者によると、砂漠こそが自然の一番の自然状態（エントロピーが極大）で、海洋の中心部は海の砂漠だそうです。生命の希薄な状態こそ自然である、という指摘は驚きです。しかも、「砂漠」に生命をもたらすものが、風や地球の自転や海流による湧潮という地球物理的な条件であり、海底に溜まっていた栄養素が海面近くに上がって、それを餌にプランクトン→海草→魚→鳥（昆虫）→森林という連鎖が生じると説かれています。<br />
　非生命の物理・気象・海洋学と生命の生態・生物学が見事に組み合わされていて説得力があります。しかも、これがエントロピー学の真骨頂の一つでありますが、前記の食物連鎖はその排泄物の循環という裏の過程を含めて認識することで、より全体的に生態系を把握できるのです。マンションのベランダの鳥の糞はたんなる汚れかもしれませんが、郊外や森・砂漠にまかれる鳥の糞は、「肥料付きの種子」なのです。現代の都市住民を例外として、一般に動物は排泄物処理に悩まない、自分の死体を含めて循環の資材ですから。<br />
　地上に生きとし生けるものは、等しく重力の影響下で暮らしています。馬齢を重ねるとお腹やお尻の肉が垂れ、背が丸くなります。生命の栄養素であるチッソ、燐酸、カリなども、重力と水の力で山地から海の底に運ばれます。放っておけばことごとく砂漠化する自然に生態系をもたらすのは、生命の反重力的な仕事であって、しかもその仕事にはエントロピーの増大則がつきまとっています。エンジン（熱機関）の開発の中からエントロピーは見い出されましたが、その後の重化学工業化（化石燃料の大量使用）の進展の中で、膨大な廃棄物＝産業社会の糞が生まれ、もはや生態系では処理しきれない状況になっています。ＷＴＯの自由貿易が生み出す南北の経済格差、国内の失業者・フリーターも、現在の経済システムが処理しきれなくなった一種の「廃棄物」です。<br />
　いわばゴミまみれ汚物まみれの状態になっている地球に、より合理的な経済システムと生態系をもたらすためにはどうすればいいのか、その実践的対応策として本書は書かれています。掲げる理念は「公正（フェア）」です。地球に住むどんな人にも公正であること。重力やエントロピーが誰にでも作用しているように、その作用の法則をよく知り、それを上手く利用して生態系の限界（その拡張を含めて）の中に経済を埋め戻すことを感動的に主張しています。私たちが糞詰まりにならないために、糞まみれにならないために、排泄物（弱者）から考えよう、と。</p>]]>
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<title>「ムラは問う－激動するアジアの食と農」</title>
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<modified>2008-03-31T14:26:59Z</modified>
<issued>2008-03-31T14:26:05Z</issued>
<id>tag:www.bm-sola.com,2008:/book/7.1399</id>
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<summary type="text/plain">中国新聞取材班　　農山漁村文化協会　刊 　　　　評者　徳江 倫明（株式会社エフテ...</summary>
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<dc:subject>984「ムラは問う－激動するアジアの食と農」</dc:subject>
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<![CDATA[<p>中国新聞取材班　　農山漁村文化協会　刊<br />
　　　　評者　徳江 倫明（株式会社エフティーピーエス）</p>]]>
<![CDATA[<p>　一月三一日、目を覆いたくなる事件が起こった。<br />
　中国から輸入された冷凍ギョーザから有機リン系農薬、メタミドホス一三〇ｐｐｍの残留が確認された。しかも食した消費者の急性中毒から事が発覚した。<br />
　昨年は、正月明けの不二家偽装表示問題に始まった日本の食の問題。その後ミートホープ事件、名古屋コーチン、比内地鶏、宮崎うなぎ、赤福、マクドナルド、船場吉兆…と偽装表示が続き、昨年度を象徴する漢字は「偽」ということになった。新年早々、しかも二年連続、この国の食のお粗末さが露呈していく姿は、一方で年々顕在化し、実感となっていく温暖化の深刻さと重なっていく。<br />
　僕は、昨年の正月から五〇？の手習いとでも言おうか、ブログなるものを書き始めた。農業やら環境やら、これまでの経験から日々起こる事柄から感ずることを素直に書きとめ、改めて自分というものを考えてみるという作業である。一年たってみればその多くが農業という視点からの食の安全や環境という問題に費やされているという具合である。<br />
　今回の「中国餃子問題」の一報が伝えられた時、いつものごとくマスコミのセンセーショナルな取り上げ方、中国農業の「質の悪さ」「ひどさ」ということだけに焦点をあて、煽るだけ煽る、批判精神の欠落した日本の報道の危うさに懸念を持ち、報道が始まった一月三一日のブログには以下のように書いておいた。<br />
　『第一はこの問題は中国の食品の安全問題ということではなく、あくまで日本の食品の安全問題だということだ』<br />
　消費者が手にし、購入したのは中国天洋食品の冷凍食品ではなく、ジェイティーフーズの冷凍食品であり、生協の冷凍食品ということだ。たまたま原料が中国で、工場が天洋食品だったということである。<br />
　さらに中国河北省の農家→輸送・保管→天洋食品→中国検験検疫総局→船舶輸送→双日→保管→厚生労働省検疫所→ジェイティーフーズ→保管・輸送の先にさらに多くの日本の問屋と小売があり、フードチェーンのつながりは多岐にわたる。問題はそのフードチェーンの各段階でどのような管理をしていたか？誰が商品開発者なのか？一朝一夕には問題の所在は解明できない。<br />
　いまや食のグローバル化は拡大する一方であり、日本は六〇％強の食品を外国に頼っている国、それがなければ日本の食は成り立たないということだ。その中でも輸入される生鮮野菜の四〇％、冷凍食品の六〇％は中国。さらにその中国も急成長による物価高で、よりやすい原料と加工費、人件費を求め、工場はタイやベトナムに移るケースが増えている。<br />
　しかもほとんどは日本の企業が開発者となる、いわゆる「開発輸入」ということを考えれば、今回の問題はあくまで「日本の食品の安全問題」として原因を追究することが本来の道筋ということだ。<br />
　『第二は、今回の中毒症状から判断できるのはこの問題が単なる原料野菜の残留農薬問題とは考えにくいということである』<br />
　有機リン系農薬は、日本でも六〇年代、七〇年代に大いに問題にされた農薬である。有機リン系農薬はコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害し、神経系に作用する。人間の神経がもっとも複雑に絡み合うのは目といわれ、昔、農村の子供たちに近視や視野狭窄など様々な障害が起こり、農村医学界からこの有機リン系農薬の問題が指摘されるようになったという経緯がある。しかも問題は慢性中毒問題として取り上げられていた。<br />
　今回のような急性中毒は農薬を直にまく農家自体の被害であり、本当の農薬の被害者は農家そのものだという認識が広がったのである。つまり、消費者が食べて急性中毒を起こすとすればよほどの濃度ということになり、単位面積当たりの農薬使用量が世界一といわれてきた日本でも記憶にない事件なのだ。極めて特殊なケースという認識のほうが解決を早めると思う。だから、今回の問題を短絡的に原料野菜の残留農薬が原因として捕らえ、中国の農業はひどい、農民のレベルが低い、ひいては中国という国は…というセンセーショナルな取り上げ方は逆に日本の食にとっても、政治的にも、実態の把握においても別の大きなリスクを招きかねないという危惧をもってしまうのだ。<br />
　結論をいえば、僕は今回の問題は原料の残留農薬問題ということに疑問を持っている。おそらくは加工過程、あるいは保管で何らかの問題があったのではないか、あるいは穿った見方をすれば、工場の労使問題というか、何らかのトラブルが原因となり人為的な行為があったのではないかとさえ思えてくるのだ。日本でも「格差社会」ということが言われているが、中国では現状そのような問題が起こっても不思議ではないほどの格差が生まれ、工場でのトラブルが起こっていると聞く。<br />
　実際、僕も一五年ほど前、同じようなトラブルをフィリピンとの関係で経験したことがある。その時は農薬ではなく、人為的に入れられた異物混入ではあったが、問題の深さに驚いたものだ。<br />
　そもそも食の安全は一〇〇％完全ではありえない。グローバル化によってフードチェーンが複雑になればなるほどそのリスクは高まる。しかも残念ながら日本の食はよりその傾向が強く、一つ一つ地道に解明していくほかない。<br />
　さて、この問題の発覚と前後して中国新聞取材班による「ムラは問う―激動するアジアの食と農」（農山漁村文化協会刊）の書評依頼を請けたのである。<br />
　忙しさの中で、ペラペラと「第一部ムラの存亡の危機――飽食ニッポンの影」に目を通し始めたのであるが、僕は久しぶりに暗い気持ちになってしまった。<br />
　生産者とお付き合いする仕事柄、僕は頻繁に「ムラ」を訪ねる機会が多いということもあり、ここに書かれている実態、しかも新聞社らしくとでも言おうか、淡淡と事実を伝えていく姿勢で書かれた内容はかえって重い。このような状況が訪れることはもう三〇年来の議論ではあるが、その現実化した姿、さらに加速度が増すであろうその事実に対して、何ら有効な手立てが見えないからだ。<br />
　そんな思いで目次を見ながら、その重さを解消すべく「第三部食と農を結ぶ新たな胎動」に目を移してみた。「ムラ」で営々と棚田に向かう人々、有畜複合農業、地産地消の取り組み、団塊の世代、若者に増えてきた帰農の動きなどが紹介されている。<br />
　僕はそこに書かれた地道な取り組みが、崩壊する「ムラ」の希望に結びつくことを否定はしない。自分自身の今後の生き方、働き方をイメージすればその一つ一つが魅力あるものと感じられる。あるいは今までマイナスと受け止められていたものがかえってプラスに転ずる、そのように時代の価値観が転換していく大きな証なのかもしれない。<br />
　しかし、第一部の事実がもたらすであろう結果に対して第三部を対峙させても、どうもしっくり来ないと思うのは僕だけであろうか？個々の動き、価値観、ひいては生き方ということでは理解できても、そのこと自体が第一部の問題解決につながるかということである。<br />
　棚田を守り続けてきた農家がつぶやく、それでも「山が近うなった」という言葉はそれこそ重い。我々が日本の農業や食を語るに、大きな視点が欠落しているのでは…。<br />
　そんな風に思いながら、軽く書評を引き受けたことに後悔していたのであるが、最後に「第二部激動するアジアの食と農」を読み進めながら、中国、タイ、韓国にまで取材班を送り込み、現地の細やかな実情まで踏み込んだこの本の目指そうとした意図、淡淡とした事実を積み重ねた取材の意味にたどり着いたのである。<br />
　日本だけを見て、日本を知ることは難しい。そればかりか自らの足元を検証せず、他者をあげつらうのは愚の骨頂である。自らが他者に及ぼしている影響こそ知るべき問題だ。<br />
　僕には今回の中国餃子問題が象徴する中国の農業や食品の安全管理の問題は、そのまま日本の農業や食品業界の問題としか見えない。ここぞとばかり中国をあげつらうのは、まさに経済という軸、グローバル化という軸にすべてを置き換えてきた日本の精神の貧困さを示しているように思える。<br />
　高度経済成長のさなかの日本の姿、そして今も継続する問題でありながら、このような問題が起こるたび、だから国産だ、安全な日本の農産物と根拠を曖昧にしたままのキャンペーンを行うメンタリティが続く限り、この本で問うている日本農業の現状、特に中山間地の疲弊に対する根本的解決策などあり得ようはずがない。<br />
　今回の中国餃子問題はあくまで「日本の食の問題としてとらえるべきもの」という僕が提示する視点はまさにここにある。中国やタイや韓国など、今回の問題も大きく激動するアジアの農業、食の問題と表裏であり、もっと言えば世界という視点から食のグローバル化がもたらす問題、そこを含みこんだものとして日本の現実を見る。その視点の確立なくして真の原因にたどりつくこともなければ、解決もありえない。<br />
　「ムラは問う」とはそのことを問うている。激動するアジアの食と農を問うてこそ「ムラ存亡の危機」が見えてくる。<br />
　ところで、最近、中国餃子問題を切っ掛けにして新聞社の取材を受ける機会が増えている。その記者が一様に言うのは、もはや「何を書いていいかわからない」という言葉だ。<br />
　日本において、産地偽装も、表示偽装も、残留農薬も、もはや「普通のこと」になってしまった。センセーショナルなはずのものがそうではなくなった。しかし事件が起これば書かなくてはならない。表層だけをたどり、中国だけをあげつらっても、あるいは重箱の隅をつつくことを繰り返し、つまるところモラルの問題で終わる流れに書くほうも疲れている。<br />
　「本当のことを書きたい」、「どのような視点で書けばいいのか」、「真の原因は何か」、「誰に何をメッセージすればいいのか」。今、彼らが問い始めている。<br />
　「ムラは問う―激動するアジアの食と農」という本、地方の同業者の地道な取材が投げかける視点。報道、メディアに場を置く彼らこそ、その読者となるべき本ということではなかろうか。</p>]]>
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<title>「イタリア有機農業の魂は叫ぶ」</title>
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<modified>2008-03-08T02:37:35Z</modified>
<issued>2008-03-01T02:37:04Z</issued>
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<created>2008-03-01T02:37:04Z</created>
<summary type="text/plain">ジーノ・ジロロモーニ　著　 家の光出版 有機農業協同組合アルチェ・ネロからのメッ...</summary>
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<email>mt_master@bm-sola.com</email>
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<dc:subject>985「イタリア有機農業の魂は叫ぶ」</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ジーノ・ジロロモーニ　著　 家の光出版</p>

<p>有機農業協同組合アルチェ・ネロからのメッセージ</p>

<p>評者　竹内　周（Ｒａｄｉｘの会）<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>　この本が著された二〇〇一年（邦訳は二〇〇五年）、日本では有機ＪＡＳ法が施行されて一年を経、有機においては世界と共通のものさしを持つに至った。あの時以前と以降で、有機農業を巡る状況は大きく変化したと思うのだが、私たちは、私たちの信ずるところに従って、有機農業を実践しているのだろうか。<br />
　この本は、そんな時代に、有機農業とは一体何を目指すべきものなのかを、その半生も含め、貧しいイタリアの農民として、有機農業運動家として、さらには敬虔かつ行動力に満ちたカトリック信者としてまとめたものだ。<br />
　著者は一九四六年、イタリア中部マルケ州の片田舎、イゾラ・デル・ピアーノ村に生まれた。二四歳からの十年、若くして村長を務め、修道院に暮らしながら有機農業を進め、三一歳の時仲間と設立したアルチェネロ農業協同組合を設立し代表に就任。四〇歳でマルケ州有機農業者協会、五一歳には国境をまたぎ一万三千の有機農業法人が加盟する地中海有機農業協会を設立した。<br />
　農民がなぜ村を捨てて去って行ったのか。悲痛な思いを胸に、農村の失われた文化や人間関係、風物をノスタルジックに語り、若くして有機農業に取り組んだ著者は、同じ農民として奮闘し、有機農業で村全体を蘇らせたという。良き農村の復興を目指して設立されたアルチェ・ネロ協同組合の名は、かのブラックエルクに由来し、現在では村の全農地の七〇％が有機で生産されているという。<br />
　著者は、進歩とは一体何なのかを我々に問いかけ、有機農業は文化的な挑戦に他ならないと説く。数十年程度の歴史は意に介さず、数百年の視点で、痛みを感じるほどに現象を看破する思考の深さ。<br />
　現代の食べものは私たちの身体が受け付けようにも受け付けられなくなってしまっていると話し、ＢＳＥ、ダイオキシン、抗生物質まみれの肉を許容する自分たちは、もはや食べものの質を見分ける感覚が麻痺してしまったと嘆く。マクドナルドを襲撃するなど過激派として知られるフランスの酪農家ジョゼ・ボヴェを心情的に支持し、マルクスの登場でユートピア幻想がたたきこまれ、ニーチェの思想に欺かれ、フロイトに頭までおかしくさせられたと語り、人間は正しい歴史感覚を失ってしまったと嘆く。遺伝子組み換え食品は神の創造物への冒涜であると説く……。<br />
　イタリアはスローフード運動発祥の地として近年注目されている。都会らしい人間くささ、食本来の価値と危機を食卓から切り開いた軽妙なバランス感覚やデザインセンス。この運動は当初から国際運動を視野にして開始されたものだ。北イタリアの都市部のインテリ層が運動の主軸であり、設立者のカルロ･ペトリーニ氏は著書で「スローフードは多極主義、多国籍文化的な国際運動に発展することで、文化が絶対的なものではないことを無理なく証明でき、自国の食品を絶対視する狂信的愛国心に打ち勝つことができる」と語り、グローバルな考え方は本来多様性を許容するものであり、画一化を指すものではない点を強調している。<br />
　これとは対照的に、あくまでも農民の側に立ち、悲しくも重厚な歴史観と共に進んだと思える著者は、そのフィールドを彼の同胞（はらから）たる貧しくも豊かな故郷、地中海の農業に求めていった。<br />
　本の冒頭に、農林中金研究所の蔦谷栄一氏が十頁ほどでイタリア農業のあらましを伝えてくれ、その客観性がおおいに参考になる。氏によれば著者は『行動派の哲学者』だそうだ。トルコ、イスラエル、エジプトの有機農業を訪ね、同じアブラハムの子孫として、地中海南岸諸国のチュニジアやモロッコを競争相手とするべきではないと訴える。農民同士がより広域に同じ気候、文化、伝統を連帯する思想は、我々にとってアジアなのか、環太平洋なのか。</p>]]>
</content>
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<title>『石油もう一つの危機』</title>
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<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2008-02-01T04:07:42Z</issued>
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<summary type="text/plain">「石油もう一つの危機」 石井　彰　著　（日経BP社） 評者　長崎　浩（ＢＭ技術協...</summary>
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<dc:subject>986『石油もう一つの危機』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「石油もう一つの危機」<br />
石井　彰　著　（日経BP社）</p>

<p>評者　長崎　浩（ＢＭ技術協会　顧問）</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="4822246027.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/4822246027.jpg" width="161" height="229" align="right" hspace="10" vspace="1"  /><br />
　石油の高騰が続いている。もとの水準に戻ることはないだろう。こうした中で、読み応えのある石油問題診断書を読んだ。本書の著者によれば、事態はピークオイル論が主張するような原油の供給遮断によるものではない。生産量は落ちていないし、需給は逼迫していない。先進国には備蓄が数年分あり在庫はだぶついている。イランによる供給遮断説も根拠薄弱であり、ＯＰＥＣの余剰生産能力も不足していない。少なくとも二〇一五年、多分三〇年までは石油の生産能力は増加するだろうと著者は見ている。<br />
　にもかかわらず、石油は現に値上がりを続けている。理由は原油先物が投機対象に、しかも従来と異なって一般の機関投資家のいわば素人投資資金が大量に流入しているからだ。むろんこれまでも、市場経済の原理が石油を商品として流通させてきたのだが、石油市場は今や需給関係という経済実体を超出してしまっている。金融商品化であり超市場商品である。これは全く新しい現象だと著者は指摘している。<br />
　原油供給の遮断から石油危機が起きる。本書の著者はこういう単純なピークオイル論を批判しているが、事態を楽観視しているのではない。石油市場にたしかに「構造的な地殻変動」が進行している。原油が超市場商品と化したのは一時的現象ではない。<br />
①石油の比重低下<br />
　石油は現在六割が輸送と石化原料に使われており、かつて「産業の米」「経済の血液」といわれた地位を天然ガスに譲っている。その結果、中東原油のような重油から、ガソリン軽油など白物に需要がシフトしている。この「白物革命」に従来の石油精製施設が追いつけないでいる。<br />
②生産中心が政治の不安定地域へシフト<br />
　ＯＰＥＣの生産量シェアが低下し、メジャーの比重も一二％に減少している。代わって、政治的に不安定な国の国有石油会社が新メジャーとして登場している。生産中心も中東以外に、西アフリカなどにシフト。<br />
③消費中心の移動<br />
　先進工業国ＯＥＣＤから消費中心が低開発国へシフトしており、これらの国では国営企業が価格統制しがちである。<br />
④マンパワーの払底<br />
　石油危機、資源枯渇、オイルピーク論などの影響で、石油は今や斜陽産業となり、人気低落している。新しい人材投入と将来の技術開発が不安である。<br />
⑤石油コミュニティーの変貌<br />
　従来の石油企業と石油エコノミストの専門家集団に、素人投資家が大量に流入するようになった。加えて、国営企業による石油価格統制が予期せぬ外乱をもたらす。たとえば、ベネズエラのチャベス政権による国営石油公社からのマンパワーの追放。<br />
⑥環境問題が石油開発投資を妨げている<br />
　以上を要するに、石油が市況商品化することにより市場論理が破綻しているだけではない。国営の価格統制が市場を歪めている。石油はいまや市況商品かつ政治商品へと変貌している。著者は結論的に言っている。「石油の確認可採埋蔵量の四分の三以上、石油生産量の約七割が国営石油会社によってコントロールされている。価格が上がることは結果的に増産投資が進まなくなり、生産能力はむしろ頭打ちになりかねない。同時に需要側、消費国側は、いよいよ石油には頼れないという確信が深まり、石油離れを無理にでも政策的に進めるだろう。」つまり、「石油時代の終わりの始まり」である。オイルピーク論が力をえてマンパワーが集まらず、開発の体力が低下の一方である。「石油市場から見れば最も畏れるべき悪循環の始まり」。<br />
　石器時代は石が枯渇したから終わったのではない。</p>]]>
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<title>『旧暦と暮らす―スローライフの知恵ごよみ』</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bm-sola.com/book/archives/2007/12/post_12.html" />
<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2007-12-27T03:36:16Z</issued>
<id>tag:www.bm-sola.com,2007:/book/7.1377</id>
<created>2007-12-27T03:36:16Z</created>
<summary type="text/plain">「旧暦と暮らす―スローライフの知恵ごよみ」 「庵を結び炭をおこす〓続・旧暦と暮ら...</summary>
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<email>mt_master@bm-sola.com</email>
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<dc:subject>987『旧暦と暮らす』</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.bm-sola.com/book/">
<![CDATA[<p>「旧暦と暮らす―スローライフの知恵ごよみ」<br />
「庵を結び炭をおこす－続・旧暦と暮らす」<br />
「続々と、旧暦と暮らす」<br />
松村　賢治　著　（ビジネス社）<br />
評者　竹内　周　（Ｒａｄｉｘの会）<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="kyuureki1.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/kyuureki1.jpg" width="163" height="238" align="right" hspace="10" vspace="1" /></p>

<p>月の力、季節の力</p>

<p>　著者は三部作の第一冊で、旧暦そのもの、旧暦と季節や人々とのかかわり、その失われた『来歴』を語る。自身が編纂に関わる大阪南太平洋協会発行の旧暦カレンダーについて紐解き、旧暦の全体像を伝える実用書としての趣も備える。第二冊では自然と共にある暮らしを、ヨットでの世界一周航海や阪神淡路大震災での体験を重ね合わせ、住まうことについて語る。鴨長明の方丈庵の思想から、住まうことの設計思想や人生観を語る。三冊目では今一度視野を周囲に向け、旧暦と暮らしを共にしている人々の実践を伝えることで、その静かで楽しげな広がりを感じさせてくれる。<br />
　結論から言うと、旧暦には非常に興味を持った。西暦が時を世界共通に管理する暦としたら、旧暦は地域ごとに使う暦だ。動植物生命体に親和するのは旧暦だろうし、宇宙を彷徨う宇宙船に求められるのは地球標準時間たる西暦だろう。著書に添付の「新暦旧暦対照図」を眺め続け、見えてきたことの拙い報告を試みたい……<br />
　地球の自転公転の周期は西暦も旧暦も同じだが、一カ月の位置づけは旧暦において原理的（二九～三〇日でほぼ正確。厳密には二九・五三日）、西暦で便宜的（二八～三一日で各月固定。月の運行と無関係）。<br />
　旧暦は月の運行を取り入れ天体の運行全般に誠実な暦だとわかる。<br />
　西暦と違って月に誠実なゆえ、一年が時に一三ヶ月（一九年に七回。閏月という）だったりする不便を甘受する見返りは、マクロには月が道連れにする潮汐力と気象との関連。ミクロには重力の微細な変化がもたらす生命体への影響などでは出産など、シュタイナー農法では発芽等にも関係するそうだ。<br />
　さて、太陽が地球に及ぼす影響は絶大で、その変化は年単位でゆるやかだが、月の影響は重力をもたらす意味で絶大かつ変化は反復的だ。地球の海洋気象概ねの運行パターンが、太陽と月のふるまいで決定するのだとすれば、三八万キロ、至近の月は地球表層の諸現象を決定付ける重要なファクターだろう。<br />
　太陽の強大な影響を基底音として、潮の干満をおよそ一五日周期でもたらす月は、地球の鼓動のように、目に見えない重力や圧力の触覚として、万物に影響を与えているとも言える。旧暦はこの物理的な力の存在を捨象しない。<br />
　旧暦は季節にも誠実だ。天体の運行は億年の単位で普遍だが、その影響下、生命はその許される振幅、ガイア仮説の舞台としての地球の表層で、極めてデリケートなドラマを織り成していく。そして日本では古来、千数百年の時間をかけて、そのドラマを、春夏秋冬に織り込んでいった。<br />
　旧暦は大胆にも春（一～三月）夏（四～六月）秋（七～九月）冬（一〇～一二月）と、季節を固定の約束事として決定している。<br />
　この要素が暦に生物との関連付けを可能にしている。地球上の日本という地域の、絢爛たる自然の営みに花鳥風月と人間の五感を結び、季節に具体性を与えた。旧暦は固定の春夏秋冬を基準に、太陽との揺らぎをおおまかに調整する一方、固定の基準であるが故に、実際の自然現象とのズレを人々に考え悩ませる。これが実用的な農暦として、農林漁業、生活全般、人間の営みそのものへの因果を導き出しもした。<br />
　さらには、こうした季節の力が正しくその地域の生命の振る舞いの来歴として感受され、これらに『コトバ』を与えた千数百年に亘る人の営みをも、日本固有の、自然一体の文化として伝えてきた。旧暦には、太陽と月の運行を束ねる『大統一理論』なるものが潜んでいるかもしれない。既知未知含め、より深く学びたい思いに駆られる。</p>

<p>※旧暦には様々なスタイルがあるが、ここでの旧暦は太陰太陽暦をさす。詳細は著書第一冊一章ニ章に詳しい。<br />
※今回は旧暦の基本的な説明に終始したが、著書では太陰太陽暦が温暖化を予測するなど、興味深い仮説も展開されている。</p>]]>
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<title>『自主独立農民という仕事―佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』</title>
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<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2007-12-15T05:48:36Z</issued>
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<summary type="text/plain">森　まゆみ　著　（バジリコ刊） 評者　高瀬幸途（太田出版） 　日本の農業界にその...</summary>
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<![CDATA[<p>森　まゆみ　著　（バジリコ刊）<br />
評者　高瀬幸途（太田出版）</p>

<p>　日本の農業界にその人ありと知られる佐藤忠吉の評伝・言行録です。「文章の職人」を自称する森まゆみが、丹精をこめ時間をかけて紡ぎ上げた木次の百姓たちのたたずまいは、農業が生涯に相渉る事業であるばかりか、過去と未来の人々、各地の人々を招き寄せてともに織り成す事業であることを示して余すところがない。佐藤の話をもっと聞きたいという読後感を持つが、それは読者それぞれが木次を訪ねてお願いしてみるしかない。多少なりとも農業に縁ある人には必読の一冊です、まして農の民の道を選んだ人には。<br />
六〇年代後半から無農薬の米作りを始めて七〇年代初頭には地域で有機農業研究会を結成、乳業メーカーとして日本初の「パスチャリゼーション」を使ったのは七八年、いまや「風土プラン」というゆるやかな連携の輪を広げてじつに多様な食品類を生産販売している佐藤の事跡はまことに目覚しいもので、それぞれに独創的なものであることはいうまでもないが、農業に素人の私が出る幕はなく、その詳細については本文に当たっていただきたい。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="jisyu1.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/jisyu1.jpg" width="151" height="221"  align="right" hspace="10" vspace="1" /><br />
　私が注目したいのは「自主独立農民」という言葉です。<br />
どんな職業についても強固な価値観の持ち主であっても、人はうろたえてしまう存在なのだと思います。小は財布や携帯電話を落としたとき、大はかけがえのないものを失ったとき、人はたやすくうろたえ、パニックにおちいります。信心の深い人やイデオロギーのかった人などは、かえって大きく動揺してしまう。うろたえる出来事が自分に起因しない場合、背骨が折れるほどに打ちのめされる。そういうむごい事件に無縁なまま一生を終える人は少ないでしょう。<br />
佐藤忠吉の場合、本書を見る限り三つの事件に遭遇しています。足掛け七年の軍隊生活、鉄砲水による次男の死亡事故、盟友の事故死。（むごい出来事を人は沈黙をもって耐える場合が多いので、彼の身辺にはもっと事件が生じている、と推測すべきではないか。）<br />
国家の暴力と自然の暴威の前には人の命などなんとか弱いものであることか、人の知力と意志なぞ羽毛のようなものでしかないという非情な認識、その認識がなお生きる意欲へと反転していく場所に「自主独立」という言葉が置かれていると感じられます。　口舌の徒である私の場合、折れてしまった背骨を治すために、色んな本の中から適当な断片を集めてくるしか方法がないでしょうが、佐藤は乳牛の世話や畑の手入れ、「使い捨て時代を考える会」の槌田劭などの全国の友人知人の励まし、家族や地域の仲間たちとの食事などを通じて、反転の姿勢を固めていったのではないでしょうか。息子の命を奪った大地に手をあてて、何事かを出雲弁で念じ続けたに違いありません。<br />
「国や町に頼らない自主独立した農民、国がなくなっても自分たちが生き残るための戦略を練っとります。しかし、自給というところに立つと、かえって自分ひとりの力がいかに小さく弱いかに気づく。足りないものは信用できる他人からゆずってもらう、これが地域自給圏。けれど、ゆるやかな共同はむずかしい。人のふところまで入り込んだ共同は、解体していくような気がします。お互いをみとめあって助け合う、しかし必要以上には入り込まん方がいい」<br />
こう語る佐藤は今年八七歳、「いまは二流三流でがまんしながら、目標はきちんと理想は高くかかげる。人間なんて未完成なもので、私は未完の百姓佐藤忠吉のまま、あの世に行くことになろうかと思う」との言葉が、どれほど私たちの心を鼓舞することか！　しかし、どうしてかくも心を打つのでしょうか！</p>]]>
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<title>『石油の呪縛」と人類』</title>
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<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2007-10-29T08:21:09Z</issued>
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<summary type="text/plain">「石油の呪縛」と人類　ソニア・シャー著、岡崎玲子訳（集英社新書） 　石油の価格が...</summary>
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<![CDATA[<p>「石油の呪縛」と人類　ソニア・シャー著、岡崎玲子訳（集英社新書）</p>

<p>　石油の価格が急速度で上昇を続けている。<br />
つい先日も原油価格が再び最高値を更新し、ほぼ１バレル８０ドルに達したが、これは一九九〇年代の四倍に達する価格である。その影響で、ガソリンは既に大きく値上がりしており、関連する物品やサービス全般に影響を及ぼしている。海外に目を向けると、今やヨーロッパ・アメリカへの長距離の航空券には、２～３万円の追加料金が無条件に付け加えられてくる。アメリカでは燃費の良いハイブリッド車が飛ぶように売れ、通勤に車を乗り合わせることが流行になっている。また石油の代わりに自動車の燃料になるエチルアルコールをつくるために、トウモロコシの生産が急上昇している。そして皮肉なことに、トウモロコシは食料ではなく燃料として値がつけられるようになり、石油につれて価格が上昇するので、食べるためには買いにくくなってしまっている。さらに燃料用のトウモロコシのために、小麦畑がどんどん転用されたこ<br />
とで、小麦の価格がやはり急上昇を起し、この秋には１９９０年代の３倍になった。日本でも１１月からはパンや麺類、菓子が小麦のために値上げされるという（日本経済新聞、９月２３日付記事より）。つまり石油価格上昇は，食べ物を含むあらゆる生活必需品の連鎖的な価格上昇を引き起こしており、国内的に<br />
も国際的にも、重大な事態を引き起こしつつある。</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="syohyou_190.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/syohyou_190.jpg" width="174" height="300" border="1" align="right" hspace="10" vspace="1"><br />
　この異常な事態に対して、我々のまわりにはあまり強い危機感がみられないように思える。値段は上がっているが、その理由はイラク戦争など、突発的なものであり、事態がおちつけば問題も収まる。つまり、石油はまだまだなくなりはしない、というのが、どうも人々の漠然とした理解のようである。昔から石油がなくなるという話はあるのだが、実際になくなったという話も聞かない。今回もそんなに深刻にはならないだろうというわけだ。これは果たして本当なのだろうか？<br />
　本書はこのような疑問を深く考えてみたい人にお勧めしたい本である。著者はフリーのジャーナリストであり、今年になって新書として翻訳されたばかりである。私自身も特に誰かに薦められたり、著者を知っていたりしていたわけではなく、たまたまインターネットで石油がテーマの本を探していて発見したのだが、読んでみてその内容の濃さに驚かされた。これ１冊で、石油の世界を広く見渡すには充分な内容が詰め込まれている。とにかく具体的なエピソードが多く、石油はこのように採掘されているのか、という新鮮な<br />
驚きを受けた。石油というテーマの性質上、取材はほぼ全世界にわたっており、現場の話はもちろん、専門家へのインタビューもたくさん盛り込まれている。かといって２００ページ強の文章量であり、どちらかといえば読みやすい部類の本である。翻訳は直訳気味で少し読みにくい箇所もあるが、本書の性質から<br />
してそのほうが意味が伝わるという判断であろう。以下に表紙裏の紹介文を引用する。</p>

<p>　「人間の生活は、石油なしでは成り立たない。私たちは無数の石油製品に囲まれ、移動や輸送、発電など、あらゆるものを石油に頼っている。しかし、過去も現在も、石油は単に恩恵をもたらすだけではなかった。経済的搾取や、資源をめぐる政略と戦争は今も繰り広げられ、地球規模での環境負荷も限界にきている。しかも、石油資源は無限ではない。その枯渇の可能性が叫ばれている今こそ、石油についてもっと知るべきではないだろうか。数１０億年を遡る石油の誕生から現代まで、新エネルギーの可能性など<br />
も含め、豊富な取材をもとに、あらゆる角度から解説する。」</p>

<p>　結論を書いてしまうと、本書の内容は、実は既に深刻なものである。しかし、日本の農業の将来を考えるとき、事態はさらに深刻にならざるを得ないだろう。いまや農薬・化学肥料・農業資材・農業機械はすべ<br />
て石油がないと作り出せないし、動かせない。流通も石油による長距離輸送が前提である。石油がさらに値上がりして、このように食糧を作るためには大量に使えない状況になれば、食糧の生産と流通の規模はどんどん縮小するだろう。そのとき、現状ですら自給率が四割以下の状態では、たとえ流通を最低限度にして近場の生産物だけを消費するようにしたとしても、生産量が絶対的に不足する。輸入は既に、価格と輸送の両面から困難となり、大きく縮小しているだろう。</p>

<p>　このように考えてみると、石油の将来の問題についてＢＭ技術協会がいま正面から取り組みを開始することは、まさに時代の要請であろう。石澤理事長の所信表明にもあったが、石油危機を克服できる農業のあり方とはどのようなものか、今後の協会内での議論に期待をしたい。</p>

<p>評者　奥地拓生（名古屋大学環境学研究科教員）</p>

<hr>
ＡＱＵＡ190号（2007年10月）より転載。　ＡＱＵＡの購読案内は<a href="http://www.bm-sola.com/bm/archives/08_qua/1_/index.html"><strong>こちら</strong></a>へ]]>
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<title>『森は海の恋人』</title>
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<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2007-09-17T07:45:31Z</issued>
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<summary type="text/plain">「森は海の恋人」　畠山重篤　著（文春文庫） 今年のＢＭＷ技術全国交流会（宮城県・...</summary>
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<![CDATA[<p>「森は海の恋人」　畠山重篤　著（文春文庫）</p>

<p>今年のＢＭＷ技術全国交流会（宮城県・松島にて１１月に開催：<a href="http://www.bm-sola.com/bm/archives/00_/0317/index.html">詳細</a>）にお招きする畠山重篤さんの著書である。１３年前（１９９４年）に刊行されていたが、昨年、文庫になって、多くの人が読めるようになったことを喜びたい。<br />
　畠山さんは、１９４３年( 昭和１８年) 生まれ。宮城県は気仙沼で、牡蠣の養殖をしている。牡蠣は植物プランクトンを食べて育つ。植物プランクトンは、微量ミネラル（無機栄養塩類）がなければ育たない。ミネラルは、気仙沼湾に流れ込む大川が供給する。大川は室根山系の岩石のミネラルを溶かし込んで海に運ぶ。ミネラルは溶けにくい。腐葉土を作るバクテリア類が弱い酸を出しながら岩石を溶かし、同時にミネラルを植物が吸えるように腐植酸（金属錯体）に包み込む。たとえば、フルボ酸鉄として。それが、海の植物プランクトンに届けられる。</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="HP189.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/HP189.jpg" width="200" height="275" border="1" align="right" hspace="10" vspace="1">　気仙沼湾とその水系における、このような生態系の循環に誘われるようにして、畠山さんたち漁師は、水源の森に目を向けるようになった。「牡蠣の森を慕う会」を結成して水源に広葉樹を植林する運動を始めた。１９８９年のことである。今日までに、３万本の植林をした。当時、大川上流に宮城県が計画していたダム建設に反対して、農民たちとともにこれを撤回させた。「森は海の恋人」を合言葉にして。<br />
　本書の初めの部分に、近海に浮かぶ小さな漁船から見た陸（おか）の姿が描かれている。船が進むたびに山々は刻々と姿かたちを変える。この姿かたちを目安にして船の位置取りをすることは、漁師の死活に関わることである。「山測り」と呼ぶのだという。地上で眺めるのとは随分と異なる山々の連なりである。いわば漁師の遠近法へと、パースペクティブの転換が起こる。泳いで沖に出てから振り返って眺める陸の形が、普段見るのと違っている。その驚きに似ている。もしかして魚の視線なのかもしれない。本書はこの漁師の遠近法に貫かれている。農民の遠近法に転換が起きる。ちょうど、畠山さんが森から海を見て驚いてしまうのと似ている。<br />
　「牡蠣の森を慕う会」は、陸の子供たちを海に招くことを始めて、すでに１万人以上の子供たちが参加したという。子供たちは森と海との深い関係を学ぶ。それだけでなく、漁師の遠近法、魚の視線を子供らは学ぶのであろう。畠山さんが子供時代に学んだ漁師の技術のことが本書には記録されている。その多くが６０年代を境にして失われた。本書のこの部分を読むと、まるで民俗誌のようにも思われるのである。<br />
子供たちが学ぶだけでなく、本書はまた畠山さんの学び育った過程のようにも読めるのである。<br />
　来るべきＢＭＷ技術全国交流会で、本書の著者の話をお聞きするのが楽しみである。</p>

<p>評者　長崎　浩（ＢＭ技術協会　顧問）</p>

<hr>
ＡＱＵＡ189号（2007年9月）より転載。　ＡＱＵＡの購読案内は<a href="http://www.bm-sola.com/bm/archives/08_qua/1_/index.html"><strong>こちら</strong></a>へ]]>
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<title>『iPodは何を変えたのか？』</title>
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<modified>2008-02-06T05:45:24Z</modified>
<issued>2007-08-25T08:38:34Z</issued>
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<summary type="text/plain">『iPodは何を変えたのか？』    スティーブン・レヴィ著　上浦倫人訳 ソフト...</summary>
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<email>mt_master@bm-sola.com</email>
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<dc:subject>991『iPodは何を変えたのか？』</dc:subject>
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<![CDATA[<p>『iPodは何を変えたのか？』 <br />
  スティーブン・レヴィ著　上浦倫人訳<br />
ソフトバンク クリエイティブ</p>

<p>　原題は「iPod : The Perfect Thing」。コンピュータ初期の名著「ハッカーズ」や「人工生命」、「暗号化」を書いた「ニューズウィーク」チーフテクニカルライター、スティーブン・レヴィに「パーフェクト」とまでいわせたiPodとは、米アップル社が2001年から発売をはじめた携帯音楽プレーヤーだ。今年4月で世界の累計販売台数が一億台を突破した。これはソニーの「ウォークマン」が13年かかった記録を半分以下の５年半に縮めた歴史上最速のペースだ。また、同アップル社のオンラインストア「iTunes Store」は、すでに25億曲以上の音楽と5000万本以上の映像コンテンツをネット販売している。</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="ipod.jpg" src="http://www.bm-sola.com/book/imgs/ipod.jpg" width="136" height="200" align="right" hspace="10" vspace="1" /><br />
しかし、この本で語られているのは、単なるIT家電製品の成功ストーリーではない。ただの携帯音楽プレーヤーに、ニューヨーク近代美術館（MOMA）にコレクションとして収蔵されてしまうほどの美的洗練を与えてしまうデザイナーの情熱、誰もが絶賛するシンプルで素晴らしい操作性やオンラインストアの魅力的なサービスとの継ぎ目のない連携性を設計した技術者たちの情熱は、一種の「狂気」だったことが読むうちにわかってくる。<br />
「いいものであればいつかは受け入れられる」というのは傲りだろう。たとえ高度な技術を保有していてもそれが世の中に受け入れられないケースはいくらである。音楽業界の未来は楽曲のダウンロード販売にあると誰もが思っていたが、誰にも成功させることができなかった。しかしアップルのCEO、スティーブ・ジョブズは既得権益にしがみつこうとする古い体質の音楽業界と戦って、ネット配信による新しい流通システムを確立してしまった。なぜか？アップルは熱狂していたからだ。音楽とコンピュータの結合に。<br />
また、日本ではWinnyに代表される、P2Pによる違法音楽コピーについても、ジョブズは「われわれは違法ダウンロードと戦う。訴えるつもりも、無視するつもりもない。競争するつもりだ」と発言している。実際に「iTunes Store」は違法ダウンロードを超える人気をもつ世界最大の音楽ストアとなってしまった。<br />
著者がまだ発売前のiPodをみせびらかしたときのマイクロソフト会長ビル・ゲイツの反応や、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領とiPodのエピソードをはじめ、興味深い話しがこの本の全編で紹介されている。なかでもわたしは、iPod 開発者アンソニー・マイケル・ファデルの逸話が好きだ。「もし、コンピュータがない時代に生まれたらどうしていましたか？」と聞かれて彼はこう答えたという。<br />
「刑務所に入っていたね。」<br />
革新的なテクノロジーがみせる強烈で明快なビジョンは失意の若者を救いうる。文学やロックミュージック、映画でも満たされることのない若者、自分自身でもどこに吐き出していいかわからない情熱と欲望をかかえた青年を、ある種の技術は解放させることができる。伝説的ロックバンド「グレイトフル・デッド」の中心人物、ジェリー・ガルシアでさえ「テクノロジーは新しいドラッグだ。」と言って死んだのだから。<br />
はたして現在の日本農業に、そんな若者を挑発し誘惑する新技術がどれほどあるのだろうか。いや、ないはずはない。しかし暴力的で官能的で胸がワクワクするような、人々をどうしようもなく熱狂させてしまうようなiPod的何かが欠けているのではないだろうか。農業とIT業界を、「自然」対「人工」、「アナログ」対「デジタル」といった陳腐な二元論で区別していては見落とすものがあるはずだ。また、イトーヨーカドーやイオンにあって生協にないもの、それもiPod的視点かもしれない。<br />
さて、アメリカでは6月29日に、アップル社の革命的な携帯電話iPhoneが発表された。日本での発売はまだだが、すでにソフトバンクやDocomoグループによって販売権の争奪戦になっているという。かなりの高額になるだろうといわれている日本版iPhoneだが、日本の若者がこれに熱狂するのはまず間違いないだろう。<br />
評者　井上忠彦</p>]]>
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