Book Review http://www.bm-sola.com/book/ BM技術協会は、BMW技術を研究、活用、普及し、「自然観を変え、技術を変え、生産の在り方を変える」ことを目指すものたちの全国組織です。 ja 2015-07-01T12:53:11+09:00 「『サル化』する人間社会」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2015/07/post_74.html 「『サル化』する人間社会」 
山極 寿一 著 (集英社インターナショナル)

評者: 星加 浩二(㈱匠集団そら)

 著者は、日本の人類学、霊長類学研究の第一人者で、「人間とはなにか」を霊長類を研究することで探ってきた。その人間を人間足らしめているものは「家族」だと。そしてそれは、人間が熱帯雨森から草原へ出て暮らし始めた時まで遡れる。
 さて、「第一章 なぜゴリラを研究するのか」それは同じ祖先をもち進化の過程で別れてきた人間が、人間特有の人間社会をどのようにしてかたち作られてきたのかをゴリラを観察することにより、類推することができる。家族という社会が生物学的な背景を持つなら、人間に近いヒト科のゴリラ、オランウータン、チンパンジーの社会を研究することで解明できるのではないか。著者は屋久島のサルの群れを山中に追いかけて観察することから研究は始まる。生き物を対象とする生物学は、例外の科学と呼ばれように、他の科学と違って検証ができないのである。物理や数学と違って目の前で起こったある現象は時間を逆戻りできないように二度と再現することができないし、作り出せない。
 これはよくわかる。生き物に関係する事象は、人間や動物を始めとして微生物まで同じ事象は起きない、ただ同じように見える事象が起きている。耕作をはじめ畜産でも同じだし、微生物が働いて家畜糞が堆肥に変わったり、作物の種が芽を出し生長していくのも全く同じ事象はなく、同じような事象が起きているだけなんだと実感してわかる。
 さてその観察方法であるが、ジャパニーズメソッドと呼ばれる、固体を識別するために一頭ずつ名前を付けて観察する方法で、起こったことを記録する。それまでの研究からみると大顰蹙をかったそうである。世界中の学者が、ゴリラはゴリラ、サルはサルであって、ひとつの類としか、認めていなかったのである。
 著者は、日本によるゴリラ調査が1960年にコンゴ動乱で断念してから18年後の1978年に、ザイール共和国で再開されるときに初めて調査に入るのである。また、ゴリラの研究をするときには、地元の研究者と一緒に行動し研究を行うことが大事であると考えている。
 「第二章 ゴリラの魅力」この章が一番面白く興味を刺激された。
 ゴリラには優劣やヒエラルキー(階級)がない。雄や雌、体が大きいもの小さいもの、歳をとったもの、幼少のものがすべて対等であるという。喧嘩をしてもどちらかが勝ち負けがつくまで終わらないということはなく、どちらも勝たずどちらも負けない。それは負けるという概念が無いのだという。ゴリラは誰に対しても参りましたという態度は取らないし、そんな感情も表情ももってないという。ある意味こんなに自由な生き方ができるのがとても羨ましく思える。そしてゴリラの仲直りの仕方が面白い。顔を近づけてじっと相手の眼を覗き込むのである。ふっと緊張が取れたとき自然と離れていく。誰も負けない、誰も勝たないのである。
 題名にもなっている第七章「「サル化」する人間社会」では、人間が所属しているエコひいきの集団「家族」と平等あるいは互酬的な「共同体」を両立していたのが崩壊し共同体が無くなって、まっすぐに「サル化」していく、つまり競争とヒエラルキーの社会になって、平等、対等という関係が失われていく社会に向かっていると著者は危惧している。
 家族の定義を「食事をともにするものたち」として、誰といっしょに食物を分かち合い食べるかの共食が大切である。コミュニケーションの場でもある「共食」が「孤食」になっていくと家族の崩壊に繋がっていく。それは人間性を失っていくことで、共同体も消滅せざるを得ない。それは人間社会がサル社会に近づいていく―固体の欲求を最優先にする―のであり、社会を階層化し序列の中で暮らしていく、もうすでにそれは始まっている。
 できるならば「サル社会」より「ゴリラ社会」に人間社会が向かっていくことを思わずにいられない。

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919「『サル化』する人間社会」 bm_kanri 2015-07-01T12:53:11+09:00
『食べ物としての動物たち』 http://www.bm-sola.com/book/archives/2015/04/post_73.html 「食べ物としての動物たち」 
〜牛、豚、鶏たちが美味しい食材になるまで
   伊藤 宏 著 (講談社ブルーバックス)


評者:秋山 澄兄(BMW技術協会 事務局長)

 この本は二〇〇一年に発行されていて、新しい本ではないので、ここでご紹介するには相応しくないかもしれません。ですが、畜産の基本知識として辞書替わりになるような本なので、同業多種の方や、農業者ではないBMW技術協会会員の方に是非、ご紹介させてもらいたいと思い、今回の寄稿に至りました。
 きっかけは昨年の一二月でした。西日本BMW技術協会の宮﨑事務局長と秦さん、協会研修生の永合と四人で、西日本エリアのプラント巡回をした際に宮﨑事務局長が是非にと永合にこの本を薦め、博多駅の本屋で一緒に捜していただきました。私もこの本の存在を思い出し、実際に本屋にはなかったので、私が持っているものを中古で渡そうということになりました。後日、私は本棚からこの本を引っ張り出してきて、事務所に向う途中でおそらく七〜八年ぶりに読みかえしてみたところ、これは意外と手放してはいけない本だなと思い、最後まで読み返したため永合くんに渡すのを忘れています。私にとってこの本は、鞄の中に常時入れておくとは言わないまでも、事務所の机の上にはいつも置くぐらいのものと思ったのでした。
 さて、本の内容は①「肉に命をかける豚」を皮切りに、②「産卵鶏という名の機械」、③「食べるために作られたブロイラー」、④「霜降り肉を作る黒毛和種という牛」、⑤「牛はなぜそんなに乳を出すのか」という五つのタイトルから構成されています。豚、鶏、牛の三大食畜産物が実際にどのように生産され、どのように商品となっていくのか、そしてどのように生の幕を閉じるのかまで説明されています。
 まずは五つのタイトルに入る前に、日本での肉食の歴史、消費量、生産量、自給率の推移が書かれていますが、日本人の肉食の歴史は浅く、戦後急激に延びていることがグラフでわかります。本編に入ると、それぞれの生態機能など基本的な情報から、関係者でも知っていそうで知らない食畜知識が満載されていて、データに関しては発行が二〇〇一年と、狂牛病や口蹄疫が見つかる前のもので、状況が大きく変わっている部分もあるかと思いますが、基本的な部分はあまり変わらないのと思うので、物流関係の方達、特に新人社員・スタッフや新しく畜産関係の部署に異動してきた方にはもってこいだと思います。その他にも、日本人は毎年平均一一kgの豚肉と鶏肉、八kgの牛肉、一七kgの鶏卵、四〇kgの牛乳を口にし、それとは別に五三kgの生乳が乳製品の原料として口に入るという消費量。私の体重でいうと約二倍の一四〇kg。日本人は自分の体重の二倍から三倍の「畜産物」を消費していることになっている。採卵鶏は日本人一人に対して一羽程度の割合で飼育されているなど、もちろん、各畜産農家の方々からすると飼育のされ方など、これが絶対ではないという部分もあるかもしれないので、これが全部現状だという認識をすることは良くないのですが、日本の畜産の基本知識というところで消費者の方にもお勧めしたい。
 私がBMW技術と農業を勉強させていただいた、山梨県北杜市の白州郷牧場に在籍していた時の話しですが、北杜市と連携して「教育ファーム」という取り組みを始めました。地域の保育園で、地域の有機農業生産者が月に一回、子供達に保育園の畑で野菜栽培を指導する、畑の管理も含め、時には実際に農場に見学に来てもらうという取り組みでした、おそらく現在も継続しています。ある時に保育園の子供達が先生と一緒に白州郷牧場を見学に訪れ、鶏舎で鶏とご対面を果たした時に、おそらく三〇代前半ぐらいの先生でしょうか、「私、生(で見る)のにわとり初めて!」と嬉しそうに言った時、私はそうとう複雑な思いと驚きを隠せず、「えっ今まで北杜(田舎)に住んでいて、鶏を見たことないのですか?」と思わず聞いてしまいました。するとそばにいた園長先生から「昔は鶏なんて珍しくもなく、家の庭や畑にいたけど、今は田舎でも飼う人はいませんよ」と言われ、これが現実、でも確かに考えてみればそうだなと。畜産は山に追いやられ、ウィンドレス畜舎など、あることは認識できても中は見えない。このあたりで見ることのできる畜産動物は牛ぐらいのものでしょうか。子供達に「鶏は一日に卵を何個生むか知っている?」と聞けば、「六個、一〇個」と答えが返ってくる、これはスーパーの卵パックの入り数だと気づく。こんなことを言い出せばきっとプロの方もきりがなくなると思いますが、食べる側の食材のルーツや生い立ちへの意識は低いなと、知らないものを食べさせられているのか、食べているのかと言わざる得なくなってしまいます。最後はため息ばかり出るようなくだりになってしまいましたが、とにもかくにも、ご紹介したこの本のようなものは必要だなと思っていますので、是非皆さん、読んでみて下さい。
 さて、研修生の永合くんには「大事な本だからこそ、自分で捜して購入しなさい」と偉そうに言ったものも、本人が手に入れたかどうかを確認していません。もしまだ未購入であれば、三月で研修が一区切りになり山形へと帰っていきます、その際に餞別に渡そうかと考えてみようと思います。

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920『食べ物としての動物たち』 bm_kanri 2015-04-01T10:04:50+09:00
「BMW糞尿・廃水処理システム」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2015/02/post_72.html 「BMW糞尿・廃水処理システム」 
〜自然の自浄作用を活かす
 長崎 浩 著 (農山漁村文化協会)

評者:永合 耀(BMW技術協会 事務局)

 BMW技術の関係者の中には、まだBMW技術のこと良く知らない方やなんとなくしか知らない方もいると思います。私も研修に入ったばかりで分からない部分が多々あります。この本はプラントの仕組みやBMW技術の活用方法等が分かりやすく書かれています。
 そもそも「BMW技術とは?」という方もいると思います。ざっくり言ってしまえばプラントの中で微生物、岩石、水を使い多量のミネラルを含んだ生物活性水を作る技術のことを言います。しかし、なぜそうなるかという話です。自然界における微生物、岩石、水は自然循環の中で大きな役割を果たしてくれています。BMW技術に使われているバイオリアクターは岩石と腐植土を用いて、自然界の浄化作用を再現してくれています。また、プラントは自然の浄化の仕組みを利用していて、バイオリアクターによって空気と水が循環することで微生物を培養してくれます。その培養された微生物が有機物を分解し、土壌腐植質の生成と窒素のガス化等を行ってくれています。つまり、バイオリアクターを使い微生物の培養をし、有機物の投入によって微生物の活性化と有機物の分解をして土壌腐植・副産物を得る、という自然循環を模した技術になります。
 大きな自然循環の中で微生物・岩石・水は重要な役割を担っていました。水は岩石・植物・土壌に触れ、浄化され海や生物を通して循環しています。生物は死に有機物となり微生物に分解され水とミネラルとなり、そしてまた水とミネラルは植物、動物に吸収されます。また、微生物が分解する時に土壌腐植を生み出し水と岩石の屑がそれを吸着させ土壌が生まれます。その中で植物が育ち食物連鎖の流れが出来て、最後には有機物となり微生物に分解されていきます。その自然循環の流れの中にはみ出さずにすっぽりとハマってBMW技術が存在していました。自然循環の流れの中の微生物・岩石・水に着目し、無駄のない処理システムを再現したBMW技術の処理水を河川にながしたとしても、水質を汚染することなく自然を循環することが出来ます。BMW技術には捨てるところがないのは、この自然循環の流れを取り入れすべての物質を新たな資源として生み出すことにありました。
 では、なぜこのシステムに行き着いたか?ということで岩石と微生物は生物と密接に関係していることが大事なポイントになります。話は時間をさかのぼり、地球に生物がいなかった頃から始まります。もともと岩石と海しかない時代の岩石と海水は、ほぼ同じミネラルバランスだったと言われています。地球に誕生してくる最初の生命体は「原始のスープ」と呼ばれており、海水中に存在していました。その原始のスープは海水中のミネラルを取り込むことで増殖していったとされています。そんなことから原始のスープは岩石とほぼ同じようなミネラルバランスになりました。その原始のスープから進化が始り、今、人間がいるわけです。そして原始のスープから受け継いでいったミネラルバランスは、人間にも受け継がれているわけです。また、生物は菌と共生していてミネラル・微生物は人間にとっても切り離せない関係を築いてきました。いい菌を摂取して、体のミネラルバランスを整えることが地球上の生物の健康管理をする上で必要不可欠なことになったのです。つまるところBMW技術を使って出来た、いい菌と多量のミネラルを含んだ生物活性水は植物にも動物にも有用だと言えます。
 そのBMW技術を使い生物活性水を作りだす方法は何種類かあり、使い道も色々です。家畜の糞尿を分離させた液体を使う方法、堆肥の染み出し液を使う方法、家庭の雑排水を使う方法などもあれば、基本はあるものの、そもそものプラントの形が違うものなど、形も一概にこれと言い切れるものではありません。処理水の濃度もプラントによって違い希釈率なども多少変わりますし、田畑に使うか畜産に使うかでの違いも面白いものだと思います。また、何槽目の水を使うか?という選択肢もあり、広い範囲で使えるものになっています。家庭のプランターや鉢、庭先。あるいは生ゴミ処理に使ってもいいと思います。
 最後に、この技術の中心は、技術と人にあると思います。環境汚染が叫ばれる今日において、環境保全型農業や小規模農など自然を守り循環させる農業はとても大事なことだと思います。そして、この技術を通して農家の技術の向上や地域との繋がり、地域再生、あるいは全国や世界に広がっていくネットワーク。この技術の核心でもあり、楽しいことでもあるのは、そういった農業とBMW技術を通して人々と繋がっていくことも一つの理由だと思います。

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921『BMW糞尿・廃水処理システム』 bm_kanri 2015-02-19T17:23:50+09:00
「資本主義という謎」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2014/08/post_71.html 「資本主義という謎」「成長なき時代」をどう生きるか
水野 和夫・大澤 真幸 著 (NHK出版新書)

評者: 井上 忠彦 (BMW技術協会事務局)

 グローバリズムにせよ、新自由主義やTPP推進にせよ、経済成長至上政策にせよ、いわゆるBM的な価値観とはどうも相容れない、相反すると思えるわけですが、いったい、その理由は何なのか。利潤追求しか考えない多国籍企業が悪だ、と批判するだけでは解決できない、ひょっとすると資本主義そのものに最初から組み込まれている何かが、BM的な価値観と対立してしまう性質を持っているのではないか。そんな疑問を持って、この本を読むといくつも示唆を受けることがありました。
 この本は、大澤真幸氏と水野和夫氏の対談形式で、「なぜ資本主義は普遍化したのか?」「なぜ資本主義は西洋で誕生したのか?」「資本主義に国家は必要なのか?」「成長なき資本主義は可能か?」といった章ごとの設問に基づいて議論が進んでいきます。現在の世界をみれば、資本主義以外にはもう人間社会に可能な選択肢はないのではないか、と思えるほど資本主義は世界中を席巻し普遍化していますが、一方で資本主義は歴史的にきわめて特殊な現象です。(諸説ありますが)13〜16世紀に、当時先進国だった中国(明)やアラビアではなく、遅れていたヨーロッパで誕生しました。特殊な時代背景を背負った地域で生まれたものが、なぜここまで普遍化したのか。マックス・ウェーバーの「禁欲説」によればプロテスタントの倫理、特にカルヴァン派の世界観に基づく行動様式が、資本主義と親和性が高かったからということですが、ウェルナー・ブンバルトらは反対の「解放説」をとります。資本主義とは、近代の行動の原理である「より速く、より遠くへ、より合理的に」「蒐集(コレクション)」を最も効率よく実現できる仕組みですが、この恩恵を享受できるのは、限られた割合の少数の人間たちだけです。チャーチルの「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである」という言葉をもとに「資本主義は最悪のシステムであるが、今まで存在したいかなるシステムよりマシである」と形容されます。
 21世紀のグローバリゼーションの行き着く先は全世界の「過剰・飽満・過多」であり、現在は「歴史的な危機」に向かう真っただ中です。
 いま、時代の宗教は「資本主義」だともいわれますが、まさしく、宗教が第一の価値だった中世から、近代に移行したとき、宗教に代わって、人間の新しい教義、モラルを保つ価値観になったのは資本主義でした。これは単に「拝金主義」という意味合いではなく、資本主義が新しい宗教になったのです。中世では、貧しい人間は神に祈ることで天国に行き幸福を得た訳ですが、近代以降、貧しい人間は勤労に励むことで経済的充足を得て幸福になります。
 中世では時間は神のものでした。だから金を貸して利子をとることは「神の時間を盗むこと」であり悪でした。これが、ある歴史的な背景のもとで悪ではなくなります。また中世では「知」も神の所有物であり聖職者と一部の特権階級が独占していましたが、出版の普及によって、多くの人々のもとへ「知」が行き渡ります。宗教改革によって資本主義は誕生しました。

 現在の世界経済の低迷は資本主義社会がもはや新しい投資先を見つけることができないことに根本原因があり、「成長なき世界」の到来はこのままでは避けることができません。最後の章に「中国の存在は中世末期のスペインと同じ。中国以外にはもう膨張するところはない。近代社会の幕引きが中国になる」「資本主義における最終的な世界に勝者はいない」という部分があります。そして、示唆的な映画として「桐島、部活やめるってよ」が紹介されます。映画のなかの現代の高校生には、はっきりとした勝ち組負け組があり、みな閉塞している。決して逆転できない格差が描かれ、これは世界の比喩になっています。つまり「アメリカ、覇権おりるってよ」という映画であり、資本主義の成功のシンボルがなくなる社会をこれから日本人は生きていかなければならない。「現代の資本主義は未来の人間から搾取してしまっている」「人間には未来はないけど希望はある」「世界は病院である」といった言葉で結ばれます。

 さて、2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは、ジョークで「世界的経済危機を乗り越えるためには宇宙人が必要だ」といったそうです。ひとつの可能性は、成長市場のなくなった地球以外の、他の惑星と交易することで経済成長が見込まれるから。もうひとつの可能性は、侵略的宇宙人だった場合、その危機に対して各国の統治者が大規模な軍事的財政支出を行うことで景気が回復するから、と。いわば「巨大な公共事業としての戦争」です。しかし、各国の軍事産業関係者をはじめジョークとはまったく考えていない人たちもいるようです。安倍政権の性急な集団的自衛権行使容認閣議決定のニュースをみて、これもアベノミクス経済政策の一環か、と思いました。

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922『資本主義という謎』 bm_kanri 2014-08-01T09:04:51+09:00
「わたしたちの体は寄生虫を欲している」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2014/01/post_70.html ロブ・ダン著 野中香方子訳 (飛鳥新社)

評者 星加浩二 (㈱匠集団そら)

 題名からしてちょっと過激であるが、原題は「The Wild Life of Our Bodies: Predators, Parasites, and Partners That Shape Who We Are Today」である。このParasitesが寄生虫であるが、この原題からは私たちが寄生虫を欲しているとはなかなか思いつきそうにない。
 さて本書の第一章は、エチオピアの砂漠から掘り出された四四〇万年前の一本の臼歯から始まる。その臼歯の持ち主は「アルディ」と名付けられたひとりの女性である。アルディが暮らしていた環境は砂漠ではなく湿気の多い森林地帯だった。周りには寄生虫、病原体、捕食動物、そして相利共生生物と一緒に自然そのままの生活をしていた。そして著者は、アルディからネアンデルタール人、原生人類へと進化する過程で人間が人間になったのは、住居の洞窟に侵入してきたヒョウを追い出して殺すべきだと判断したときからはじまり、自分たちの周囲にいる何を生かし何を殺すかを決め、他の種を殺し始めた時に、わたしたちは完全な人間になったのであるという。それからわたしたちの周りに起こったことは、自らの手で環境を作りなおし、限られた作物(小麦、トウモロコシ、ライ麦)のみを育て、害虫や寄生虫、病原体をきれいさっぱり消し去ったことである。
 しかし自然を喪失したわたしたちを待ち受けていたのは、今までになかったタイプの病気の出現である。
 第二章、「寄生虫は人類にとって欠かせない最高のパートナー」に自然(寄生虫)を遠ざけた結果(病気)が語られている。その最も悩ましい病気のひとつが、免疫システムが自分の消化管を攻撃するクローン病である。わたしたちの免疫システムは、病気と戦う二つの軍隊を持っている。一つはウィルスや細菌などと戦うもの、もう一つは大きな敵、寄生虫と戦うものがある。この免疫システムについて私は、自己と非自己を区別して非自己を攻撃することという単純な知識しか持っていなかったのであるが、ここに述べられている免疫の仕組みは、もっと複雑で絶妙であることを教えてくれる。
 もし寄生虫をやっつけられなくなって腸内に棲みつかれた場合、体はどうするのか。実は免疫システムには調停役というものがいるのである。棲みつかれてしまった時、やっつけられないのに攻撃を続けるエネルギーの損失を回避するのと、ウィルスや細菌と戦うためにエネルギーを温存するため、調整役がでてきて攻撃をやめるよう指令を出すのである。しかし現代の清潔な暮らしから寄生虫が遠ざけられた結果、寄生虫をやっつける免疫軍がそのエネルギーを自己の腸に矛先を向けるのである。寄生虫がいないため調停役の出番がなく、その攻撃の手を緩めることができなくなりクローン病に罹ってしまう。これは単に腸内のことではなく体表面(皮膚)など免疫に関係するところにも発現するのである。
 発展途上国より先進国で過剰な免疫反応による病気が多いのは清潔な暮らし―自然から離れた―になったからである。そのための治療にもう一度寄生虫を腸内に取り込む(体が欲している)ことにより症状が良くなることが述べられている。また現在では役割がないと思われている虫垂の存在理由も、実は細菌の棲みか―バイオフィルム―であり、もし下痢などで腸内の細菌が少なくなったときに供給する―それこそ菌庫であるという。不思議満載である。
 第三章では、「乳牛に飼い慣らされて」というテーマで、人間が乳牛の祖先「オーロックス」を飼い慣らすことによりその乳を手に入れることができたのだが、実は人間も牛乳を消化するラクターゼという酵素をつくることができるように、「オーロックス」に飼い慣らされていたことが述べられている。
 第四章では、「すでにいない肉食獣から逃げ続ける脳」として、すでにわたしたちのまわりにはヒョウやトラ、ライオンなど捕食する肉食獣は見当たらないのに無意識下ではわたしたちはいまだにその恐怖から逃れられないでいる、と書かれている。この章で取り上げられているのはトラのほかにヘビがある。人と毒ヘビの係わりあいから、人はいかに毒ヘビをいち早く見つけることができるように目│視力│を発達させてきたという。寄生虫や乳牛と同じく自然との係わりあいの中で相互に進化してきたのがわたしたちの体であることを教えてくれる。
 第五章の「人間が体毛を脱ぎ捨てた理由」は、シラミやマダニ、ノミなどの外部寄生虫による病気から逃れるためであった。この問題もわたしたちと他の種との相互作用が原因で体毛を失ってきたのだ。 
 第六章、「太古の昔から現在まで、断崖で暮らすわたしたち」では、わたしたちの暮らしにどうすれば捨て去った自然(Wild Life)を再び回復することができるのか、新たな方法が提示されている。しかしそれは現代の便利な暮らしから不便な昔に戻るのではなく、またわたしたちに欠けている単なる自然でもなく、わたしたちが求めている自然は、豊かさや多様性、そして恩恵をもたらす自然なのだ。そのとき忘れてはならないのが、目に見えない腸内の寄生虫や腸内細菌も恩恵をもたらす種であることだ。

 生命の誕生から現在まで、細菌から植物、大型哺乳類やわたしたちを含め、どれ一つとして単独で生きてきたものはなく、すべて相互関係の中で命をつなげてきたことに思いをはせることを、この本が教えてくれるのではないでしょうか。

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923「わたしたちの体は寄生虫を欲している」 bm_kanri 2014-01-01T18:21:32+09:00
「経済学の犯罪」稀少性の経済から過剰性の経済へ http://www.bm-sola.com/book/archives/2013/07/post_69.html 佐伯 啓思 著 (講談社現代新書)

井上 忠彦 (BMW技術協会事務局)

 経済という仕組みをつくったのは間違いなく人間であるにもかかわらず、今日、人間の方が経済に支配されているように思えるのは、わたしだけではないのではないでしょうか。本書は、文化人類学研究(モースによるトロブリアンド諸島の「クラ交換」)など貨幣の根源から立ち戻り、アダム・スミス、ケインズらを経済思想史的に分析して現在の経済学を批判した本です。わたしたちが信じていた市場中心主義経済学が誤りであることを平易に解説してくれます。
 まず、リーマン・ショックやEU危機など、現在、世界が陥っている経済的困難の背景には、世界を席巻している市場中心主義経済学(シカゴ学派)の影響が極めて大きいことが説明されます。著者によれば、一九七〇年代頃には経済学の流派は「シカゴ学派」「アメリカン・ケインジアン」「ラディカル・エコノミックス学派」「制度学派」「ケンブリッジ学派」などが並立していたそうです。ところが、一九八〇年前後に「すべてを市場競争を委ねるのが正しい」という、いわば市場原理主義を主張するシカゴ学派だけが支配的になってしまいました。その理由は左翼ラジカリズムの衰退と、市場中心のシカゴ学派の理論には数学的なモデルを導入しやすく形式化に成功したため、いちばん科学的・普遍的に見えたからだそうです。その結果、シカゴ学派の市場中心主義が、米国から世界各国へ導入され、世界の市場経済の一極化と単一化を推進しました。日本においては小泉政権の構造改革路線へとつながっていきました。
 グローバリズムはIT化と連携し、日本でも「小さな町工場に地球の裏側から注文が入り、世界とつながることであなたのビジネスはもっと豊かになります」といった喧伝がされました。わたしたちは、それがなにかとても新しい未来で、自由で解放された素晴らしい時代になるのではという期待とともに受け入れましたが、今世界が直面している経済的困難は、金融グローバリズムが持つ本質的性質によるものなのです。
 「自由な競争的市場こそは効率的な資源配分を実現し、可能な限り人々の物的幸福を増大させることができる」というのが市場中心主義経済学の基本命題ですが、巨額な投機的資金が、瞬間的利益を求めて世界中を駆け巡るグローバリズムの中で、投資家たちの「私的利益」と一国における国民全体の「公的利益」は一致しないのです。その場合、「公的利益」を実現するためには政府の出動を待つほかにありませんが、国家の信頼性が国債市場での金銭的評価のみによって判断されるなか、国家さえもが市場に従属することになりました。
 「市場主義的経済学は、リーマン・ショックのような危機に対応できない、というだけではなく、市場主義的経済学が部分的であれ、危機を生み出す一因となっている」と著者は指摘します。
 「経済学は資源の効率的配分を目的とする科学だと経済学者はいうが、『効率性の追求』とはひとつの価値判断にほかならない。たとえば、効率性を犠牲にしても公正性をとるとか、環境を大切にするとか、あまり働かずに気楽な生活を楽しむ、などという価値もあるではないか。……経済学という『科学』のおかげで、われわれは『効率性の追求』という価値へと強制され、それから逃れることができなくなってしまうのではないか。経済学は科学だといいながら、実は、効率性の追求を最優先すべし、というイデオロギーを選択していることになる。だが、どうしてそれが望ましいといえるのだろうか。」
 過剰な資本主義における倫理観の欠如を描いた映画「ウォール街」で主人公は「強欲は善だ」と言い放ちました。しかしそれを「金融市場における飽くなき効率性の追求は善だ」といいかえれば、わたしたちが信じている経済学になるのです。
 「合理的科学」である経済学の発想は、「非合理」なものや「無駄」を許容しません。それが現代の人間を生きにくくしています。過度な競争主義、単純化された能力主義、利己的個人主義、すべてを金銭的評価でランク付けし今すぐに成果を出せという短期的成果主義、限りない成長主義、そういった価値観を私たちは押しつけられています。そして、成長主義の限界や「脱成長社会」を語ると「電気を使わない江戸時代に戻るのか」というような幼稚な議論になりがちで、いつまでたっても幸福感なき経済成長を求め続けてしまうのです。
 農業においても市場が生産者を支配していますが、そもそも食物や水など生命に関わるような重要な「社会的土台」は安易に市場に委ねるべきでは無いと経済史家のカール・ポランニーは主張しています。市場経済がうまくいくためにはそれを支える社会的土台がしっかり安定していることが必要だからですが、「あらゆる経済活動を市場競争にさらして利潤原理と効率性基準のもとに置こうとする構造改革は、社会を破壊しかねない。」という著者の言葉は、TPP問題や遺伝子組み換え食品など現在の「食の危機」にそのまま当てはまるでしょう。また、原発再稼働の是非についてもその根底に横たわっているのは経済問題です。わたしたちは経済成長(効率)と生命の安全を天秤にかけているわけですが、そもそも「経済成長」とは「生命」に匹敵するような価値なのでしょうか。
 また、世界市場の一極化は各国で貧富の拡大をもたらしました。ユニクロの柳井正会長は「グローバル化とは、grow or die.  経済成長か、さもなければ死か、という時代だ」と語っています。ファーストリテイリング社(ユニクロの親会社)の有価証券報告書によると、アベノミクスが始まった一二年一一月一四日から一三年四月二二日までの五ヶ月で、柳井氏とその家族の保有株式の時価は八五四八億円増えたそうです。全従業員の給与手当は一二年八月の決算で八三九億円ですから、柳井氏一家のわずか五ヶ月間の資産増加額は、全従業員三万八千人の給与一〇年分に相当します。これは、自由競争における正当な成功者利益であり、また、アベノミクスのトリクルダウン理論(富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透するという経済理論)により、日本国民の利益になる、と喜べることなのでしょうか。

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924『経済学の犯罪』 bm_kanri 2013-07-01T18:56:01+09:00
「リフレはヤバい」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2013/06/post_68.html 小幡 績 著 (ディスカヴァー携書)

岡田哲郎 (NPO支援センターちば・理事)

 著者は、九二年東京大学経済学部卒業、現財務省入省、九九年退職。二〇〇〇年IMFサマーインターン、〇一年ハーバード大学経済学博士(PhD)、〇三年まで一橋大学経済研究所専任講師、現在、慶応義塾大学大学院経営管理研究科准教授で財政再建に熱心です。
 さて、著書は「リフレはヤバい。最悪だ。」から始まる本文からも明らかなように、所謂「アベノミックス」に物申す内容になっています。「リフレ」とは、リフレーション(reflation)のことで「通貨再膨張」と訳され経済が停滞から回復しつつある状態をさすが、リフレを目指す政策(リフレ政策)そのものを意味することもあり、デフレで停滞している経済を正常に戻すために適正なインフレ率を目指す金融政策のことを指し、財政拡大を含む広義の景気回復策を表す言葉としてここでは使用されています。
 昨年末の衆議院議員選挙の方針として、安倍晋三自民党党首が主張したこの金融政策を支えているのが、リフレ派と呼ばれるエコノミストや経済学者であり、メディアは、このリフレ政策を中心とする安倍首相の経済政策をアベノミックスと呼んではやし立てているというのが現在の状況であると著者は主張しています。
 内容としては、第〇章で、「リフレ政策とは何か?」について概説し、①インフレターゲット、②マネーの大量供給、③「期待」に働きかける、④日銀法改正をも視野に入れて、その政策実現のため安倍首相は強力にデフレ脱却を目指していることを解説しています。しかし、著者は、第一章で「そのとき日本経済に何が起こるか?」とし、「リフレ」政策でインフレは起こせない、物価が上がっても給料は上がらないと疑問を投げかけています。第二章は、インフレが起こる前に始まる円安についての影響で国債価格の下落、すなわち名目金利の上昇で、この円安を手放しで喜べないと指摘しています。第三章は、円安と同時に起こる日本の金融市場と経済の危機についてです。円安それ自体が国債価格の暴落を意味し、国債暴落による銀行危機、政府財政危機に連結し実体経済に波及すると指摘しています。第四、五章は、リフレ派の二つの根本的な誤りについてとりあげていますが、著者は、インフレは望ましくないという立場であり、インフレは金融政策で起こすことはできないし、所得増なくしてインフレなしと言っています。第六章では、政治家、経済学者、エコノミストが何故必死に主張するのか。ヘリコプターマネーのような「期待」でインフレを実現できるのかと著者は言います。第七章リフレ政策を正しいとする論者の理論的背景について、著者は、高度成長期のように期待できない。第八章で、インフレと並んで円安も日本経済に悪い影響を与えること、さらに円安戦略は過去のものと切り捨てます。
 最後に「おわりに」で、著者の日本経済への処方箋として、今必要なのは「雇用」であり、「人間こそが、経済を動かす力であり、社会を豊かにするもの」とし、新しい現在の世界経済構造の中で役割を果たすよう改革すること、そのためにグローバル社会での人材育成、管理者としての技能及び企業力等の育成・強化することと提言し、著者の主張が「当たらなかったなと、批判を受けるシナリオ。そちらのほうのシナリオが実現すること。それを強く願って、本書を、安倍首相とかれの愛する日本に捧げたい」と書添えがあります。
 この本は、株式会社デイスカヴァー・トゥエンティワンが電子書籍として製作し、同時に「ディスカヴァー携書」として出版されたもので、同社は「デイスカヴァーブッククラブ」というウェブサイトを持ち、本について語り合う読書会や著者の講演会などイベントを開催し、先行予約やオリジナルグッズなどの特典がある会員組織となっており、読者参加型のメディアの一つの形かもしれません。

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925『リフレはヤバい』 bm_kanri 2013-06-01T18:55:00+09:00
「適正技術と代替社会」―インドネシアでの実践から― http://www.bm-sola.com/book/archives/2013/03/post_67.html 田中 直 著 (岩波新書)

阿部 均(米沢郷牧場)

 本のタイトルに惹かれ、思わず手にとってしまった。二〇一一年三月一一日以降、問われ、求められているものこそ、「適正技術」と「代替社会」であろう。
 シューマッハーが『スモール・イズ・ビューティフル』(一九六五年)で提唱した「中間(適正)技術」についてずっと関心をもっていた。適正技術という言葉には二つの意味がある。一つは発展途上国の実情に応じた技術、もう一つは先進国において現在用いられているエネルギー多消費・環境破壊型の技術に対する代替技術という意味である。いわゆる先進国の巨額の資金を要しながら雇用を生み出さず、逆に伝統社会を破壊して仕事を奪う「一〇〇〇ポンド技術」と、いわゆる途上国の金はかからないが豊かさはもたらさない「一ポンド技術」に対し、それらの中間の「一〇〇ポンド技術」という言い方が象徴的である。途上国開発の文脈と近代科学技術批判の文脈があり、後者の文脈より、BMW技術もまた、すぐれた適正技術としてあるのではないか。
 第一章の後半に、適正技術の言葉の意味と概念、世界におけるこれまでの適正技術に関する経緯、活動の流れについてまとめが設けられているが、今日的な位置づけ(世界の大多数の人々に必要とされる技術)がなされ、コンパクトな入門・解説書となっている。
 震災で生じた事態に対し、復旧・復興が急務となっているが、今ある社会のかたち・消費のかたち、現状の経済や技術の体系の持続を前提に、元の状態に戻そうとする慣性力が強く働く嫌いはあるが、それらは「過渡期のショックを和らげる」という意味でしか現実的ではない。中長期的視点に立ち、資源、環境、貧困と格差など、今日の世界が多重的にかかえる困難な問題を乗り越えていくことができる「代替社会」が現実的に問われている。福島第一原子力発電所の事故後は、化石燃料消費を抑制し、原子力発電から脱却し、すべて再生可能エネルギーのみに基づくエネルギー供給体制を築くことしかないことは自明である。だからこそ「適正技術」と「代替社会」なのではないか。
 今日の世界が抱える困難な問題をもたらしているのは、先進国の技術体系・経済システムなのであるから、地球の未来は、もはや「先進国」の技術自体が目標とはなりえず、現在の技術文明の延長上には描けない。必要とされるのは、途上国の状況に適した適正技術である。それは、近代科学技術の問題を乗り越える使命をも帯びている。本書は、副題に―インドネシアでの実践から―とあるように、著者の具体的な実践例(排水処理とバイオエネルギー)の紹介のみならず、今後の望ましい技術のあり方と、それを含む代替社会の方向性を探るものである。
 第四章「代替社会に向けて」は、それだけで一冊の本になるような内容であるが、これからの社会は、どちらかと言えば強く環境問題(エネルギー供給制約)により、成長に依存した経済とは両立せず、しかし貧しい社会になるわけでなく、より自由で豊かな社会となる可能性にも開かれていることを提示する。
 まず、近代科学とは何かと問い、「光の巨大と闇の巨大」とし、トレードオフの関係であることをあげる。そこで、光としての近代科学技術の魅力として以下のような要素をあげる。①限界を超えていく自由 ②労苦からの解放、利便性③自然環境の緩和④非効用的魅力、美。闇としては、環境・資源・格差・労働疎外等の問題など。著者は、自らの実践に基づき、これらをエネルギー供給の制約とも整合しうることの根拠を列挙する。ある面では輝きを増し、別の面では、失われていたものを回復する契機となり、またそのまま保存される面もある。社会の豊かさは減ずることなく、逆に増大する可能性にも開かれているという。
 また、先進国が望ましい転換を成し遂げて行くための技術を「代替技術」と呼び、技術的観点から代替社会を考える骨格の論点として、専門化と自分たちでやること、小規模分散型の社会システム、巨大産業の行方の問題を揚げる。近代科学にもとづき技術を人間の手に取り戻すことは、適正規模の経済への移行を進める上で重要な要素であり、地域住民の基に食糧・水・エネルギーの自給(コントロール)ができることは社会の安定性を高め、絆を強め、人間的能力を回復させる。そして、石油・鉄鋼・化学等の装置産業(大工場)は、大量消費を前提としなければ存在意義は認められないという。技術体系の確立とは雇用の問題であることも強調している。
 これからの技術の開発分野は、開発と近代科学技術批判という、適正技術をめぐる二つの文脈が交差するところで生まれてくる技術群で、再生可能エネルギーをはじめあらゆる分野にわたる。そこでは、「技術というものを、それぞれの地域や場面の社会的、経済的、文化的条件の中において動的にとらえ、そこにある問題を解決し、必要を効果的に充たすために、もっとも適した技術を柔軟に選択し、あるいはつくり出して、実践していこうとする姿勢」が基本となる。持続可能な農業においても然り。だからこそ、震災復興を代替社会へのシフトの契機にすることが望まれるのではないか。

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926『適正技術と代替社会』 bm_kanri 2013-03-01T18:53:22+09:00
「科学の扉をノックする」 http://www.bm-sola.com/book/archives/2013/02/post_66.html 小川洋子 著 (集英社)

長野 広美(西之表市市議会議員・沖ヶ浜田黒糖生産者組合)

 南の島の夏。夜になると、島風が昼間の暑さを優しく癒してくれます。見上げる夜空は天空から星々がこぼれてきそうなほどキラキラ輝いています。「コスモ」とか、「ギャラクシー」とか、「宇宙」という言葉をはるかに超えて、地表に立つ私は何億光年という膨大なエネルギーの、しかし圧倒的な静けさの中に吸い込まれてしまいそうになります。
 宇宙に対する私の好奇心はホーキング博士、火星探査機キュリオシティ、ダークマター、ニュートリノ、カミオカンデなど次々に広がり、科学雑誌「ニュートン」の立ち読み読者だったりします。宇宙論についてはビッグバン以前のことがちっとも話題にならないことが不満の一つですが、例えば「宇宙に質量」という最近の研究を聞いたりすると、宇宙神秘を再認識すると同時に科学者たちに象徴される「ヒト」が持つ探究心と科学力にも感嘆してしまいます。
 また一方で宇宙は、例えば時間軸と空間軸があまりに非日常的単位となり、また宇宙理論は近寄りがたく、太陽一つさえ、実感できるかというと心もとない一面もあります。小川洋子著「科学の扉をノックする」を読むと、科学に対する彼女の「実感」視点がこれまでのどんな科学書にもないわかりやすさを伝えていて、迷える私の科学思考すらすーっと筋道が見えて「なるほど」と満足できます。
 小川は言います。「結局、一度誕生した物質は、無にならない」。宇宙の誕生から地球ができて、地球誕生からヒトが進化し、そして「ヒト」である私たちはやがて宇宙エネルギーとなって循環するということに深く納得します。決して実感できるはずがない宇宙誕生から今この瞬間の「私」と、土成分にまで分解されてしまう自分の死後からさらに永遠に続く宇宙の未来までもが一気につながり、心に安らぎすら感じます。さらに小川がノックする科学の扉は、地殻を成す鉱物、生命のDNA研究、大型放射光スプリングエイトから粘菌など、多岐に広がっています。例えば「大腸菌から人間まで、すべて同じ遺伝子暗号と同じ遺伝子暗号解読表を使っている」などのわかりやすい説明とともに、自然科学に精神性や物語性を感じるという小川の「実感」視点は、自然界とそれらに向き合う科学者たちを温かく愛おしく包んでいます。
 さて、一一月にBMW技術全国交流会in高知が開催されました。全国からの貴重な実践報告など充実した交流会でしたが、私のアンテナがグッグーと特に反応したのは最初に基調講演された若い科学者による地球と生命のお話。ヒトが必要とするミネラル分と鉱物との比較で納得しました、今なぜBMW技術なのかと。
 岡山大学準教授の奥地先生のお話は、まずは地球から始まりました。地球を知ることが生命を考えることであり、岩石や土壌を生き物との関係性で理解すると、必然的にBMW技術につながるとの説明。マントルの動きに連動する地殻変動によって日本では最も新しい地形になる高知県の地でBMW技術の普及が進んでいる理由も少しわかったように思いました。
 昨今原子力発電や遺伝子組み換え技術など科学の最先端は自然界を「消費と浪費」しているようで、科学が嫌いになるところでした。奥地先生や、小川が紹介する科学者たちは、自然界にどのように私たちが生かされているのかを知ろうすることが「正しい」(独断的ですが)科学だと言っているように思います。

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927『科学の扉をノックする』 bm_kanri 2013-02-01T18:52:03+09:00
『小石、地球の来歴を語る』 http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/12/post_65.html ヤン・ザラシーヴィッチ 著 (みすず書房)

評者:星加浩二 (株式会社 匠集団そら)

 十和村(現四万十町)のプラント点検のおり、四万十川の河原に立つと、つい平べったい小石を手にして水切りをしたくなってしまう。手にしっくりとくるなるべく平らな小石を探しまわってしまう癖が抜けないでいる。そんなとき手にした小石をみつめて、どうやってこんな小石ができたんだろうと不思議に思うことがある。BMWプラントで使う花崗岩や軽石などの小石は、初めはでっかい岩が川を流れ下ってくる間に砕け、角が取れて小さくなり手のひらにあるのが何千何万年という時間が通り過ぎてきたのだとなんとなくわかる。でも青や緑や赤や白などきれいな色をした小石はどこからやってきたのか分からない。この疑問にこの本は答えてくれるのである。

 著者はイギリスのウェールズ地方の海辺や丘陵で石のなかに隠された長い歴史を解明してきた地質学者である。一三章の物語で小石の誕生から未来までの道を案内してくれる。
 小石の謎を宇宙の起源―ビッグバン―までさかのぼって、小石に含まれている元素から物語が始まるのである。
 プロローグは、手のひらに乗っている小石には、ありとあらゆる元素がふくまれているらしいところから始まる。一番多いのは酸素で、その半分を占めている。残りのほとんどがケイ素、アルミニウムという。一番多い酸素はケイ素やアルミニウムなどにがっちり取りこまれ固く結びつきケイ酸塩となって岩石をつくる鉱物の骨組となっているのだ。そのため小石を酸素ボンベとして使うことはできないのだ。また小石のなかには金や銀、プラチナなども原子レベルではなんと何百万個も含まれているらしい。モルや一〇の何乗個だとか数字がでてくると、ちょっと取っつき難いかもしれないが、小石の成り立ちを宇宙史から解き明かすのである。
 地球の誕生――マグマオーシャンが冷えて地殻が出来てからようやく我々の小石の元が現れるのだが、小石になるまでにはまだまだ気の遠くなるような時間が必要なのだ。海ができてからようやく生命が小石のなかに痕跡を残すようになる。それは、プランクトンや筆石などからできているのである。その流れ去っていった時間と小石ができた場所を教えてくれるクロノメーターが、われわれの小石のなかには一〇種類もあるのだと丁寧に記述されている。
 著者は小石のなかに含まれる元素から、一つずつ丁寧に物語を語ってくれる。それは生き物であり、金であり、油田であり、いま騒がれているメタンハイドレードやレアアースである。それがどうやってできたのか、地球史を紐解いてくれる。

 今年の八月に高知大会に合わせて開催された高知の岩石調査で、海岸や山に行き小石を手に取り地層を触って奥地准教授から解説を聞いたときに、今まで何回か参加した岩石調査ではイメージできなかった小石の歴史がちょこっとわかった気がした。今こうして小石を手にしている生きている自分のなかにも小石と同じ元素があるのだと思うと、小石が愛おしいものに感じられてくる。

 この一三章のエピローグは、われわれの未来よりもっともっと長く有り続けるであろう小石も、五〇億年という時間ののちには、太陽に飲み込まれたわれわれの地球もろとも蒸発し、再び宇宙空間に還っていき、そしてまた宇宙のどこかで恒星系に組み込まれ、新しい物語が始まるかもしれないと、永遠の環(サイクル)を暗示して終るのである。

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928『小石、地球の来歴を語る』 bm_kanri 2012-12-01T16:01:50+09:00
『いま自然をどうみるか』 http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/07/post_64.html 「いま自然をどうみるか」 高木仁三郎 著 (白水社)

評者 阿部 均(米沢郷牧場)

 本書は、初版が一九八五年、九八年に増補新版、東日本大震災と福島原発の事故を機に昨年新装版が出された。
 私たちは、自然をみるとき、いわゆる五感で感じるものと、「一見したところ理性的に解明された整然たる自然像」がある。だが、後者は、「今というかけがえのない瞬間の、実際のこの世界の中で、私たちがいまそうしているように生きていることの意味を示してはくれない」。
 高木氏は、「私たちの自然観は、科学的・理性的なものと、感性的・身体的なものとに鋭く引き裂かれてしまっている。それによって私たちは自然とのトータルな結びつきを失っている」と言う。その引き裂かれたものは、「詩人たちの自然」と「科学者たちの自然」、「手の自然観」と「知の自然観」とかの対比した表現がある。
 故高木氏は、「いまや国民のデータベース」となった原子力資料情報室の前代表であり、核テクノロジー(「プルトニウム社会」)の問題の摘出と提示した著作が数多くある。その著者が、科学(技術)批判からもう一歩進めて、基底となる自然観の問題に立ち入り、「自然とは何か」という問いに取り組み、自由と解放の自然観へと思索の歩みを進めたのが本書である。
 西洋的自然観の顕著な特徴は、①自然を人間にとって克服すべき制約とみる、②自然の有用性を見てそこから能うかぎり多くの富と利潤を引きだそうとする、③自然利用のために自然を私有の前提とする、ものである。そして「人間の主体性の発露と自由の拡大とみて、進歩と自由の名において正当化した」ことが最も重要であると著者はいう。そこには人間中心の独善と欠落が生じ、今日の自然と人間の関係における危機を生み出してきた。「自然の知」に学ぶのでなく、「自然についての知」が自然を損なうのである。
 本書は「第一部 人は自然をどうみてきたか」と「第二部 いま自然をどうみるか」から成る。著者は、面倒くさければ一部をとばしても構わないと言っているが、逆に、ギリシアから始まって現代にいたるまでの西洋の自然観の変遷・知的展開を追うことは、新鮮で興味深く、スリリングでしかも刺激的である。不十分ながら要約は以下。
 ギリシアの「知の自然観」は自然を神話の世界から解放し、それが科学につながった。そこには歴史の底流として日常の農業労働等の「手の自然観」も存在し続けたが、貨幣経済の発達に伴う精神労働と肉体労働の分離が起因となり、人間から自然を切り離した。人間を「自然を統一的に把握しうる存在」として科学文明(自然を機械としてみる)を生み出した。
 近代科学の定立の中で、視点が宇宙にも及び、人間は相対(絶対)化され、人間中心主義に抽象化されていく。そこでは、人間は自然を超越し、自然を利用と操作の対象と見、数学的手法での数量化による普遍化が行われ、「〈なぜ〉を棚上げにし、〈いかに〉によって世界を解くことができる」(二元論)とする。ニュートンのくだりは圧巻である。
 現代では「科学」は合理性という強制力をもった政治的力である。自然について「自然科学」が唯一普遍な認識であることを、国家政策・産業・教育等様々な制度に守られながら、常に自己主張し、排他的に振舞う。「客観的な科学」がすぐれてイデオロギー的な存在として機能している。
 このように「自然とは何か」を問うことで、これまでの科学万能主義(科学技術に対する盲信)を掲げた経済第一主義の近代化の展開そのものを見ることができる。
 第二部「いま自然をどうみるか」では、物理学者たちが熱学的な地球モデルとして、〈生きた地球〉=宇宙に開かれた「開放定常系」(水と土を媒介した循環)と捉え、地球・生態学が多様な生物の共生の総体として〈生きた地球〉(ガイア理論)を捉える転換が提示され、人間と自然の新しい関係を考察する。そこでは「進化論」や「文化論」まで思索され、人間中心主義の自然観からの一大転換の必要性を説く。
 原発問題は、いま現在も、主要には安全性や経済性の問題として考えられているが、「新しい(別)次元」の問題としてある。放射性廃棄物は、絶対に自然の循環には戻せない。放射性廃棄物とともに「情報」の閉鎖系をも生み出し、社会を硬直化する。脱原発は、自然と人間の新しい関係のはじまりとなるかもしれない。
 自然と人間の関係の復権には、「私たち自身がみずから自然な生き物としての自然さに素直に従う」、「社会全体が、生態系の生きた循環の中に位置づけられる」とする著者は、「適正技術や地域主義や手作り運動などはパッチワークにすぎない」と今あるエコロジズムに手厳しい。
 本書を通して、著者が試みた思索は、現代の危機の根源に立ち向かうため、「自然さに依拠した社会的な運動」を提起し、労働と生活の観点を加えながら、より自由でよりナチュラルな精神と身体のあり方を模索することにある。
 三・一一以降、改めて「自然とは何か」ということを、一人ひとりが問い直さなければならない。そのとき、身近に置き、ゆっくりと落ち着いて繰り返し読みたい自然哲学の書である。

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929『いま自然をどうみるか』 bm_kanri 2012-07-01T22:20:26+09:00
『解抗免力』 http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/06/post_63.html 健康を手に入れて放射線リスクを減らす知識と習慣61
土井 里紗 著 (講談社)

評者:岡田哲郎(NPO支援センターちば・理事)


 昨年三月一一日、マグニチュード九・〇という大地震が東日本を襲い、東北地方を中心に、地震と大津波で死者・行方不明者あわせて約二万人という未曾有の大災害が発生した。さらに追い討ちをかけたのが福島第一原子力発電所の事故だ。いろいろな情報が飛交い、事故の本当の状況・影響は不明のことが多く不安を掻き立てられている。外部電源が失われて水素爆発が起こり、格納容器も破損し燃料棒が溶け落ちてメルトダウンからメルトスルーに至り、核燃料が原子炉の外にまで漏れ出し、放射性物質は福島県だけにとどまらず、はるか二〇〇km離れた千葉県内や東京でも、放射線量が局地的に高い「ホットスポット」がいくつも観測された。東日本は、ほぼ福島第一原発由来の放射性物質を浴びたと見られ、残念ながら現在の日本で無防備に暮らしながら健康を保つことは難しい状況になったと見られる。
 長らく広島で被爆した多数の方たちを診てきた内科医の肥田舜太郎先生は、最近の著書「内部被曝(扶桑社新書)」の中で、今回の事故後の報告として、下痢、口内炎、のどの腫れなどの初期の被曝症状が、敏感な子供たちに現れている状況から、今後、広島・長崎で直接原子爆弾を浴びていない被爆者に現れた「原爆ぶらぶら病」の発症も現れるかも知れないとしている。さらに内部被曝は、「低線量被曝」ともいわれ、その被害はガンや遺伝的影響も有ると肥田先生は指摘している。しかし、内部被爆が原因で起こるという因果関係は、医学会は認めてない。
 さて、本書の著者、内科医の土井里紗先生も、福島第一原発の事故により環境拡散した放射性物質は、土壌、大気、水など私たちを育む生命の源を汚染した。福島県だけの問題でなく、何百kmという範囲で汚染が広がり、さらに、放射性物質を含む食品や焼却灰や瓦礫、肥料などが全国的に流通し、もう日本中どこに住んでいても、放射性物質と無縁でいられないのが現状であると指摘している。
 これまでの「自然界の放射能」に加えて、原発から出た「人工の放射能」とも向かい合わなければならなくなり、特に放射能の影響を受けやすい子どもたちは、汚染の少ない場所に避難させたり、安全な食べ物を確保するなど、これからは「放射能に負けない生活スタイル」の追求がより必要となった。低線量の被曝であれば問題ないとする専門家に反論し、「放射能に負けない体づくり」について、「解抗免力――健康を手に入れて放射線リスクを減らす知識と習慣61」の提言をしている。
 この「解抗免力」とは何のことなのか。著者によると、「解毒力」「抗酸化力」「免疫力」のことで、放射線によるがん化の防護においては、放射性物質をなるべく取り込まないことが大前提で、やむなく体に入った放射性物質をいち早く排泄するために、まず「解毒力」が必要で、排泄しきれないで体に残ってしまった場合、活性酸素を消去する「抗酸化力」と「免疫力」が細胞を守る働きをするので、この三つの力すべてを高めることが不可欠であると提言している。
 著書の内容は、序章として放射線による内部被曝(低線量放射線被曝)による人体被害と活性酸素のメカニズム、第一章は、解抗免力の機能を高めるミネラル、食物繊維、酵素、乳酸菌などの働きと効果、第二章解抗免力をアップさせる食生活の仕方や食素材、第三章は、解抗免力に効くサプリメントの種類と利用の仕方、第四章は、生活習慣で解抗免力を高める取り組みなど61の提言がされている。そして、この放射線リスクを減らす「解抗免力」を高める習慣は、すべての健康に通じる習慣であるといっている。


*土井里紗先生の講演が、六月二三日に、千葉BM技術協会・生活クラブ生活協同組合・生活協同組合パルシステム千葉主催による「くらしと放射能を考えるフォーラム」にて、行われます。詳細は6ページをごらんください。

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930『解抗免力』 bm_kanri 2012-06-01T09:28:38+09:00
『腸!いい話』~病気にならない腸の鍛え方 http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/05/post_62.html 伊藤 裕 著 (朝日新書)

評者:星加 敦子(団体職員)

 正直言って、私は腸をばかにしていた。ウンコを製造しているからだけではない。焼肉のホルモンは、なんとなく気持ち悪いし、見た目もちょっと…。ところが、この腸、ウンコ製造工場のみならず、大事な情報発信の場として、分泌物質を出しており、何とそのホルモンが、糖尿病治療に効果抜群!というのだから放っておけない。その知られざる腸のはたらきとは…。

 はたらきその1―それは免疫物質の半数を、この腸が分泌しているという事実。免疫と言えば、最近はもう逃れられないのだと悟るしかない放射能から身を守る最後の砦である。その免疫物質の多くを、腸が分泌しているなんて聞けば、腸様々。ばかにしていた自分を悔い、丁重(腸?)に謝らなければ申し訳ない。
腸からなぜ免疫物質が?という疑問が湧くが、外敵が一番入りやすいところは、食べ物に関わる消化器系なのだそうだ。なるほど納得。食べ物には、常に危険が潜んでいるのね。

 はたらきその2―腸からは、インクレチンというホルモンも出されている。これが優れもので、食べ物が体内に入った事を察した腸は、このインクレチンを分泌して、脳にはこれ以上食べるなと命じ、胃には、これ以上食べ物を小腸に送り込むなと命じ、すい臓にはインシュリンを分泌するように命じるだけでなく、血糖値をあげるグルカゴンの力を抑えることもできるというのだ。このはたらきを利用した薬剤が、今、糖尿病治療に革命をもたらしていると言う。インシュリンを強制的に投与して血糖値を下げるのではなく、すい臓が自発的にインシュリンを出したくなるように仕向ける治療薬なのだそうだが、ちょっと待って…。「自発性」を促す?ホルモンって、人間?
そう。腸の意外な働きを知るのと同時に、臓器やそこから出されるホルモンが、まるで人と人の関係の様に、相互作用の中にあり、そして、あちら立てればこちらが立たずというバランスと中庸の世界にあるということに驚かされる。インシュリンは効きすぎると寿命が短くなるし、生きるために不可欠の酸素も、有効利用されなければ活性酸素となって「老化」や「がん」の原因になる。過ぎたるは及ばざるが如し。ちょうど良いの難しさ…。われわれの日常の教訓は、そのまま体内のしくみにも通用する様だ。

 さて、著者も言っているが、今の様に、食べ物があふれている時代は人類史上無かったはずだ。私たちの体は、ずっと食べ物が無い時代を生き抜き、進化して来たことを考えると、あまりにいきなりの変化に対処しきれず、悲鳴を上げ、とうとうバランスを保ちきれなくなった状態が、糖尿病やがんといった生活習慣病なのかも知れない。
 そう考えると、この本の主旨、「腸を鍛え、病気とおさらばしよう!」は、決して腸が万能であると言っているのではなく、年がら年中食べ物を受け入れ、その都度、こまめに情報を発信している腸に負担をかける生活習慣を見直せ!と言っている様にも読み取れる。情報を伝達し合い、バランスをとりながら繊細に保たれている私たちの体の中の、それぞれの臓器からの小さな「囁き」が、ちゃんと聞こえるだけの情報量(食事量)に留めておけと。ふむふむ。そうなると、情報過多って、心にも体の中にも良くないってことか…。腸!いい話 聞けちゃった!

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931『腸!いい話』 bm_kanri 2012-05-01T22:38:41+09:00
『葉っぱのふしぎ』 http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/04/post_61.html 田中 修 著 (ソフトバンククリエイティブ)

評者:星加浩二 (㈱匠集団そら)


 ふだん目にしている植物の葉っぱはなぜ緑色(もちろん緑色でない葉っぱもたくさんあるけど)に見えるのか? そのむかし理科の授業で、「それは緑色の光線を反射・透過するから」と教わった記憶があるような無いような。葉っぱのもつ重要な機能とはなにか? すぐ思いつくのは「光合成」を行うこと。これも理科の授業で習った。でも科学的にきちんと説明できるかと言うとなんかうろ覚えであたふたしてしまう。そんな人たち(自分も含め)にとって、この新書は図版を使って分かりやすく解説してくれる一冊です。

 第一話は九月の台風のあと桜の花と紅葉が神戸市内で見られた現象から、葉っぱが持っている能力の導入となっている。それは葉っぱが作るアブシシン酸というホルモンが桜の花芽に影響を及ぼしているのだ。桜の花芽は夏に作られ、そしてこのアブシシン酸というホルモンが花芽を冬の寒さから守る越冬芽という冬眠状態に変えて冬を越して春に花が咲く。しかし台風で葉っぱが飛ばされてこのホルモンができないと、花芽は越冬芽にならず秋の暖かさで九月に咲いてしまうことになる。この現象から葉っぱは季節の移り変わりを夜の長さの変化を測って認識しているそうだ。
 この第一話から第二話の「時を刻む葉っぱ」へとつながっていく。葉っぱのふしぎのひとつに「時間を計測する」という能力がある。葉っぱは夜の長さを正確に測っているのだという。いわゆる植物の短日植物、長日植物と言ってわれわれも知っている。
 ではなぜ葉っぱが夜の時間を測っているのかというと、季節を知ってつぼみを作るか作らないかのタイミングを知るためだ。アサガオは一度でも一六時間以上の暗黒の夜があるとつぼみを作り始めるのだという。そしてこの一六時間の間に数分間でも光が当たるとつぼみを作らないという。では、アサガオはどのくらい正確に時間をはかっているのだろうか?実験によるとアサガオは夜の時間が九時間一五分以上だとつぼみを作るが九時間だと作らない。この一五分の差を葉っぱは感じることができる。人間でもある程度は時間の感覚は備わっているだろうが、真っ暗やみの中で九時間と九時間一五分を正確に当てることなど現代人はほとんど不可能ではないだろうか。でもアサガオはそれを測らないと子孫を残せないのだ。植物の進化の過程でこんな能力をみにつけたのだろう。生きものに備わっている体内時計にも精度の差はあるのだ。そしてこのつぼみを作れという葉っぱが作っている物質を、一九三七年ソ連の学者チャイラヒアンがフロリゲンと名付けた。この物質が葉っぱで作られて芽に運ばれてつぼみが作られる。この物質を探し出すためにいろいろな実験がおこなわれているが、これまでに特定の植物に効果を示す物質(ジベレリンなど)はいくつか見つかっているが、すべての植物に効果が出るフロリゲンはまだ見つかっていないという。まだまだ葉っぱにはふしぎなことがいっぱい残っているのだ。
 第四話働き者の葉っぱには、葉っぱの重要な機能である「光合成」と「呼吸」にまつわるふしぎが紹介されている。
 以前協会で開催していた有機栽培講座「土と水の学校」でも光合成については毎回説明がなされていたが、本書でも図入りでやさしく説明されている。根から吸った水と空気中の二酸化炭素を材料に光のエネルギーを使ってブドウ糖やでんぷんを作り酸素を出している。
 こんな現象を、二〇〇年以上前の科学者は実験方法を考えてつきとめている。葉っぱから出てきた酸素が、葉っぱが吸収した空気中の二酸化炭素からではなく、根っこから吸収された水からの酸素であることまでつきとめているのである。
 それから現在までの科学力を持っても、水と二酸化炭素と太陽光を使ってブドウ糖やでんぷんを作る装置を作れないのです。著者は、一枚の葉っぱの前で謙虚になって植物から多くのことを学ばなければいけないと説いています。
 このほかにも、第三話 光の色を見分ける葉っぱ、第五話 葉っぱのパワー、第六話葉っぱの悩み、第七話 葉っぱの運動 と興味ぶかいふしぎが盛りだくさんとつまっています。
 著者は丸ごと一冊「葉っぱのふしぎ」について語っているのだが、その冒頭で「そのふしぎを支えているのが実は土の中の陽の当たらない根っこが頑張っている」のだと。その根っこのガンバリにも思いを馳せて本書を読んで欲しいと願っている。

 自然が持つ生態系の技術に触れている私たちは、生きものがらみの現象に向き合う時には、植物や動物だけでなく微生物にいたるまで「ふしぎ」なことばっかりで今だにわからないことがたくさんあるということを、謙虚に認めることからはじまるのではないでしょうか。

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932『葉っぱのふしぎ』 bm_kanri 2012-04-01T22:37:45+09:00
『これから生協はどうなる』私にとってのパルシステム http://www.bm-sola.com/book/archives/2012/03/post_60.html 中澤 満正 著 (社会評論社)

評者:阿部 均 (米沢郷牧場)

 本書は、1970年前後より著者が「生涯で一番情熱とエネルギーを傾注」してきた生協(パルシステム)運動の概括・総括の書であり、半生記でもある。著者は「生協の歴史と生協事業の変遷は、生活者の社会的な時代背景を根拠にしている」という。本書を読み解くことで、日本の近代化とは何か、近代化によって生じた変化は何か、それらに対し著者を始めとした異端の小さな生協がどのように異議を唱え、対案を提示してきたのかが推し量ることができる。そこには、著者が、本書に寄稿されている川西氏が評するように「世直しの運動を私心なく自分のライフワークとして腹を据えて取り組んできた」ことが行間に溢れている。
 1960年代より始まる急激な高度経済成長で環境が破壊され「食の安全」が脅かされた。それに対し危機意識をもったお母さんたちが「食の安全」を求め、70年代に全国的に地域生協を誕生させていく。その意味で、生協とは「新しい社会運動」だったのだ。日本経済は、その後バブル経済を謳歌し、バブルが崩壊、そしてグローバル化を招き入れ、世界不況を経た。そこに、昨年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故が覆いかぶさってきている。著者は社会変容のターニングポイントを「1970年代以後」と「2000年以降」とする。「2011年3月11日」もそれに追加されるだろうか。
 「1970年」は、地域の共同性が解体され、「2000年」では家族の崩壊(高齢化社会と格差社会の到来も)がもたらされた。「1970年」の地域社会の崩壊に対しては、共同購入から個配への業態の変更、事業連合化、課題解決型生協を対置し、パルシステムの現在の事業システムが形作られているが、著者は「2000年」の家族の崩壊には何も手が打てていないとの認識を示している。
 同じ社会的な時代背景で日本の農業はどうだったのか。農業近代化は、規模拡大・機械化、単作・専作化で、化学肥料・農薬の多投をもたらし、環境も含め「食の安全」を脅かすものとしてあった。これに対し1970年代後半には異端の生産者が異議を唱え、有機農業を対置し、産直運動に向かう。ここで生協運動との接点が生じ、軌を一にした関係性が環境保全型農業・持続可能型農業の推進等の課題を共有していく。この過程で、産直産地は、著者(生協)がいかに時代の変化を予測し、どうように対応したのかは決して無関係ではなかったかと思う。
 さて、主題の「これから生協はどうなる」である。著者は、「生協とは食の安全はもちろんのこと、時代や社会環境によって違ってくるが、一番切実でリアリティがあるもの、多くの人の共感を生む課題に取り組むもの」、「生協は『獏』のようなものである。夢を失ってしまえば『生協』は社会的な存在の意味を喪失してしまう」と言う。「流通業の太陽としての大手スーパーに対し、生協は月のようなものである」と。
 「2000年以降」は、価値観の多様性の時代とも多様性の共存する時代ともいわれる。著者は、生協運動の中で多くの商品開発に手掛け携わっているが、そこには「協同する」、「商品に関わるさまざまな人々のコミュニケーションの回路をつくっていく」、「環境や人間の労働の在り方、健康コミュニケーションなどの総体を開発する」という産直の考え方が根底にある。著者の問題意識は、そのうえで、時代の変化に対し生協のポジショニング、生協の立ち位置をはっきりさせることが再度必要だ、ということに尽きる。
 第三章「日本人の食―その文化と風土」は、前著「おいしい『日本』を食べる」の著者の食文化のベースの思想として収められているが、日本(稲作)を含む世界の食文化を概括する手軽な入門書となっている。本来であれば、背景として気候変動や政治・経済(侵略と戦争)があることは無視できないが、「世界の各地域(民族)の食文化はその風土により造られてきた」ことと、現在の日本の食文化を批判的にまとめられて興味深いものとなっている。そして、人間は食料なしに生存できないこと、農業が永続的生産を続けられる社会が絶対に必要なこと、農業は唯一資源収奪型でない永続的産業たりえることを声高に宣言する。ここに最近の自由化論議(TPP)に対する回答の一つがあるだろう。
 生協(産直も)は流通の一形態でしかないということは明らかだが、協同組合運動の原則に基づき、本書をより多くの生協運動に関わる人たちが一読し、著者のメッセージを正面から受け止められることを希求する。同時に、同時代を生きてきた産直産地の生産者の方々にも、著者の抱いてきた夢と実践、これからの生協(協同組合運動)に託すメッセージを共有していただきたい。
 「3・11」以降ますます循環型社会へ向けた取り組みが要求されている。循環型社会は夢なのか?それを夢のままにするのかどうかが今問われている。これからの生協には、著者の意に反するかもしれないが、「月」のような存在に止まらず、「新たな社会運動」の一翼を担うことを期待したい。

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933『これから生協はどうなる』 bm_kanri 2012-03-01T22:35:26+09:00