新型コロナウイルスという疫病とどう戦うか

2020年4月30日  BMW技術協会 顧問  長崎浩

コロナ疫病の現段階

会員の皆さん
 私がこれを書いている今、新型コロナウイルスによる疫病はなお全世界で止まる気配を見せていません。これにたいしてわが国では、厚生労働省の専門家チーム(クラスター対策班)の戦略は次のようなものでした。まず最初期、およそ3月下旬までは感染者の接触ルートを洗い出して対象者を個々に処置していく。これによって世界でもまれなほどに感染爆発を抑えてきました。しかしこれ以降は感染者の激増に対処するために、社会的な対人接触の自粛を国民に呼びかける戦略を取ります。4月7日に首相が緊急事態宣言を発して接触8割減を要請、この呼びかけが本格化しました。その成果いかんを見るのが緊急事態の期限5月6日です。しかし他方では、感染者の増加に医療体制が追い付かず、医療崩壊が発生するのではないか。同時に、行動自粛がこの国の経済と行政をずたずたにしている。行動自粛と医療・経済の崩壊、この2 通りの動向の絡み合いで5月の連休明けを迎えるわけです。
 しかし他方で、クラスター対策班の以上の戦略にたいする異論もまた、この間に主として医学専門家から主張されるようになっています。それによれば、重点はこの疫病による死亡者数を減らすことにおかれるべきで、そのためにはPCR検査の全面的実施により感染者の分布を把握する。軽症者は病院外に隔離して監視下に置き、重症者のみ入院治療するということです。
 恐らく政府による緊急事態宣言は延長されて、しかも上に指摘したようないくつもの対処方針が混乱錯綜しながら展開するものと予想されます。この混乱を腑分けする私の見方を、時節柄とり急いで以下にお伝えする次第です。

生態系としての疫病

 今回の新型コロナウイルスによる疫病にたいしては、各国が「これは戦争だ」というかけ声のもとに対処してきました。けれどもこの戦争は、敵(ウイルス)を殺すことでは勝利できないのです。人類社会が何とか敵をよけて進む、あるいは敵をあらぬ方向に誘導することが戦争の実相であるほかありません。ワクチンができても事態は変わらない。ワクチンの開発にはなお時間がかかり、それまでに敵は姿をくらましているでしょう。そして姿を変えて数年後にはまた出現するはずです。
 なぜこんな見方ができるかといえば、疫病ウイルスとは一つの生態系だからです。生態系として振舞う、つまり進化する生物システムなのです。1976年以降30回に及ぶアフリカのエボラ出血熱の猛威がこのことを見せつけました。今世紀に入ってからもインフルエンザの度重なる流行があり、その最新版として今回の疫病に人類社会は直面しているわけです。従来は住処を別にする形で併存してきた生態系に、繁栄を極めた人類社会が接触しあるいはこれを征伐するようになっています。エボラ出血熱の例で言えば、アフリカ横断道路を建設した結果、密林の蝙蝠や猿に住み着いていたこのウイルスが人間に感染したのだと言われています。
 ウイルスや細菌は宿主に住み着き宿主とともに蔓延します。宿主を殺すのが疫病です。つまり人類社会それ自体が病原菌とともに1個の生態系として振舞うことが、全世界的に顕在化するのです。ウイルスだけでなく豚熱などの流行、森林から畑への猪の侵入などを想起してください。人類が他の生態系と接触して被害を被る事例が相次いでいます。社会はその都度豚を殺処分し鉄砲で猪を追い払うなどして対処してきました。だが今回も同じやり方なら、感染者を絶滅させなければなりません。もとより疫病では宿主を皆殺しにはできません。ウイルスあるいは病原菌と人類社会とが共同行動するほかなく、これを生態系の共進化と呼びます。

生態系に関わる技術とは

 私たちのBMW技術は疫病の流行に直接に関係はしない、それは医療技術の問題です。しかしにもかかわらず私たちに無縁でないのも、生態系そして生態系を対象とした技術の在り方こそ、私たちがこの30年をかけて探求してきた課題に他ならないからです。農作物に病害虫がたかる、家畜が病原菌にやられる。この時、農薬など特効薬を使って敵をピンポイントで絶滅させる、こうした通例のやり方はとらないのだと私たちは考えてきました。敵は棲息していて構わない。ただ、農畜産物の健康を維持してきた微生物生態系を活性化させることを通じて、敵の活動を抑え込めばいい。この考え方のもとにBMW技術を育ててきたのです。この経験をベースにして新型コロナウイルス疫病現象を見極め、これに対処する戦略を提案できるはずです。
 ウイルス生態系は微生物生態系、さらに広く地球生態系の構成要素の一つにすぎません。ウイルスのみならずこの地球生態系そのものが、今人類社会との間に軋轢を生じているのです。地球環境問題がこれです。新型コロナウイルス疫病の世界的な蔓延は、私たちがここでも地球環境問題に直面していることを示しています。そして地球生態系はまたこの地球全体の循環系、「地球システム」の構成要素をなしています。地球システムとは物理学・生物学にもとづく機構であり、決して便利な比喩の言葉ではないのです。地球システムの変調・異変として昨今の異常気象があり、これに人類文明が関係しているのは言うまでもありません。加えて、これは天災ですが、地球システムの異変として地震・津波との遭遇も避けることができないでいます。
 BMW技術は狭く農畜産物の健康向上だけでなく、広くこれを地球システムの観点から捉えるようにしてきました。そのとき、地球システムとその構成要素の振舞いは、現代技術といえども予測し制御することはできないことが見えてきます。ここから身近な生活や農業にあって、たとえ可能であり性能がよくとも、使ってはいけない技術があるのだと主張してきました。現代技術はそもそも「できるからやる」をモットーに進化してきたのですが、この世には「できるけどやってはいけない」技術がある、そう考えてきたのです。
 ウイルスにしても病原菌にしても、医学はその絶滅を目標としがちです。そもそも現代医学は、ペストやチフスなど疫病の原因として特定の病原菌を発見し、病原菌を絶滅する特効薬が大成功を収めたことで、初めて科学の仲間入りができたのです。その結果、特定の病気には一つの原因が存在するからそれを特定して除去する、これが医療だと私たちはすぐに考えがちです。これはとても特徴的なことですから、特に医学モデルと呼ばれています。これにたいして近年の医療では批判的な潮流があります。仮に社会モデルと名付けるとして、これについて私は後に取り上げるつもりです。

コロナに対処する二つのモデル

 では、今回の新型コロナウイルス疫病に直面して、医学モデルはどう考えるだろうか。昨今の疫病流行に共通することですが、特効薬はないしワクチン開発には時間がかかる。それでも、命を救うのが医学の使命だ。私はこの文章の初めに、政府・厚労省の対コロナ戦略の性格とこれにたいする批判的な見解とに触れました。後者の戦略を図式化すればこうなります。感染の疑いがあれば(無症状でも)全員にPCRなどの検査をして患者を選別する(スクリーニング)。重症者は専門病棟に入院させ、それ以外の陽性者は病院外に一定期間隔離し一人ひとり監視下に置く。監視とは病状の進行のモニターであり、同時に本人に外出・対人接触の禁止を守らせることです。医療資源を集中的かつ効率的に集中することにより、新型コロナウイルスによる死者数を抑え込むのです。ありうべき医学モデルといえるでしょう。
 世界を見渡せばシンガポールや台湾など地域国家、それに中国とか韓国やイスラエルなどがこの方式により、死者数を抑え感染爆発を早期に終わらせることに成功したと見なされています。容易に推測できるように、規模の小さな国ないし全体主義的な管理国家という条件が否定できないでしょう。これにたいして欧米は自由にして民主の国々、国民の統制などとうに諦めているし、強権を一挙に発動するなどできない相談です。良し悪しは別として、社会がルーズに緩んでおりかつ複雑化しているということでしょう。ともかくも、管理国家の医学モデルは取れなかったし、今も取れないでいます。
 同じことはわが国でも言えますが、先に指摘したように厚労省(クラスター対策班)→地域保健所→病院→保健所というルートで、まずは感染拡大を抑え込むことに成功したようです。このままいけば先進国のまれに見る成功例になるはずでした。この過程で医療的な地域自治の仕組みも組織され機能したようです。だが、一種手工業的なこの対応が4月には限界に突き当たって、外出・接触自粛要請の緊急事態宣言(4月7日)に至るわけです。欧米ではこれが罰則付き外出禁止令の施行となる。
 わが国の緊急事態宣言は別名国民の「行動変容」の要請といわれます。全国民に社会秩序の変更を呼び掛けているのです。期限付きが前提とはいえ、考えてみればこれはとてつもないことです。先の世界大戦での国民総動員令を思い起こします。社会活動を停止すべく国民を総動員しようというのです。罰則や強制でなく、国民が自主的に国家の呼びかけに従うという建前です。国民の八割が家でじっと息をひそめている。その間に集中治療と軽症者選別の医療体制を機能させる。これができればクラスターつぶしと呼ばれる初期戦略に再度戻ることができる。だが、社会活動の停止は同時に経済活動の停止になります。これにたいしては緊急の財政出動が必要とされ、また国民ことに下流階級からの切実な要求になっています。
 新型コロナウイルス疫病へのわが国現在の対処方針は、まとめればまず社会活動停止による接触感染の防止、この間に医療体制の再構築と生活休業補償の早期実施という、互いに不調和な施策の同時追求だと見ることができます。疫病がいつ終息するにしても、日本社会に大きな後遺症を残すのは間違いのないことです。この意味で先の医学モデルとは性格が違い、日本社会の在り方そのものに手を突っ込む方針なのです。この考え方を疫病に対処する社会モデルと呼んでおきます。結果的にはこちらの方が医学モデルに比べて金銭的かつ精神的にはるかに高く付く方針です。新型コロナウイルス終息の後にこの痛手からどう立ち直るか、国民自身の自主的な心構えと選択を要求しているのです。

会員の皆さん。
 医学モデルと社会モデル、疫病にたいする二つの戦略を図式化して見ました。だが実際には、管理国家が国民全体を統制することなど完全にはできないし、国家が号令して国民を総動員するなど貫徹するはずもありません。二つのモデルとも現実を極端化した考え方です。ただこの見方からすれば、現状わが国のコロナ疫病に対処する動向は、前者、医学(病原菌)モデルへの傾斜を強めているように見えます。その分医療専門家の声が大きくなっています。あるノーベル賞学者がTVに出て、医学モデルが行われれば「自粛などしなくていい」と発言していました。実際、このモデルが効を奏してコロナが過ぎ去れば、社会は何食わぬ顔をして従来の秩序と活動に戻るはずです。これにたいして社会モデルから見れば、人類社会は今後とも疫病と共進化する生態系であり続けるほかはない。国家におんぶするのでもその指令に従うだけでもなく、国民自らがこの社会と国家を変えていけるかどうか。はるかに長い射程の社会的政治的な課題が課せられ続けていくのです。
 私たちはこれまで「自然観を変え技術を変え、生産の在り方を変える」というスローガンを掲げて、BMW技術を地域に根付かせる運動を続けてきました。地域すなわち土地と風土と仲間こそが、新型コロナウイルス疫病と戦う根拠地であることに改めて思いをいたして、この難局を乗り切って参りましょう。