« ■食肉起原追跡にDNA鑑定技術を用いた「トレイスバック」方式が広がっている | メイン | ■ブッシュ政権が食物危機援助を遺伝子操作作物の売り込みに使う »

2008年05月14日

■世界的食料危機で抗議と暴動が多くの国で起きている

ジュネーブ(GENEVA)-食糧の値段が高騰して、発展途上世界の多くの地域-インドネシア、インド、バングラデシュ 、カメルーン、コートジボアール、ハイチ等-で、暴動が起きている。だがそれは驚くべき事にはあたらない。これらの食糧騒動は、多くの発展途上国がその境界を開いて、そして国内の農業を怠ったことの結果として経験した一連の事態の最新のものに過ぎない。

多数の発展途上国が、世界銀行(World Bank)と国際通貨基金(International Monetary Fund)(IMF)、が課した条件と世界貿易機関(World Trade Organisation)(WTO)が求めたコミットメントを良心的に実行した。発展途上国は、(それらの国際組織が要求する)所定の構造調整政策を適用してきた-そしてそれは彼等の国内農業部門にとって有害な結果を招く事になった。その結果は発展途上国自身の食物を生産する能力の浸食であった。

1970年代とさらに1980年代初期にまで及んだ強い国家支配の時代に、発展途上世界の国内食品市場がしばしば「国営マーケティング局」や協同組合の手中にあった。マーケティング局が底値を保証して、肥料と種子を提供する事がよく行われた。国営マーケティング局はまた輸入量をコントロールして、生産不足があるところには食品を再配布して、そして協同組合から商品を購入していた。

これらのマーケティング局は可能な最良方法で実行されていたわけではなかった、汚職と非能率の多くの事例があった、しかしそれはある特定の大事な機能を果たした。農民達は彼らの産物を売るマーケットを提供された、それは彼らが暮らしをたてていたことを意味した。物価は安定していた、だがそれは農民の希望よりしばしば低いものであった。

これらの政策の結果として、多くの発展途上国は、「ネット」食品輸出国であるか、あるいは少なくともやっと食糧が自給自足できていた。このすべてがここ20年間で変化してしまった。農民への投資サポートがなくなってしまった。小規模農民は国際マーケットのため生産するように言われた、そして彼らの市場は外国の生産者に開かれた。政府の支援は、主食農作物生産をサポートするよりむしろ、輸出部門に行った。あらゆる農民が「比較的優位さ」を持ってる産物を専門にして、利潤がみんなに行き渡るはずであった。

しかし、最も貧しい自給農民の何百万人は、勝ち組みを生み出す事はなく、自分自身の市場からたたきだされる事になってしまった。輸入農作物が前に地元農民によって生産されたものに取って代った。ここ20年間で多くの国の生産能力はひどく衰退した。

フィリピンはこのような政策の1つの主要な実例である。農民と一緒に農業問題に取り組んでいるNGO,「Centro Saka」のジョウエン・バーバー、はこう述べている:「60年代と70年代の間は、我々は自給自足していた。その時期は政府が米生産に沢山投資していた-潅漑、基礎構造、クレジットとインプットのようなマーケティングサポートや生産サポートをしていた。しかし政府がそれらの誘因策と助成金を止めたとき、米の生産高がゆっくりと減少していった。」

バーバー氏はさらにこう述べた:「政府が潅漑施設を維持してこなかったから、潅漑地面積もまた減少している。我々は、収穫後施設が非常に古いから、米の収穫後損失が非常に高く-最高35パーセントを失っている。」

「政府は、前と同じように保証価格で農民を支援する代わりに、生産される国内米の1パーセント以下しか買わない介入をして、我々地元農民の米より輸入米を多く買っている。」

2006年に国連食糧農業機構によって依頼されたデイビッド・ピンポ(David Pingpoh)とジョアン・セナホウン(Joean Senahoun)による輸入上昇についての研究は以下の指摘をしている:カメルーン政府の米部門への国庫補助が、IMFと世界銀行政策の実行をする事で、1994年に取り去られた。肥料市場は民有化された。貧しい農民の米の生産高は、肥料が入手不可能になったので、下がった。関税が自由化されて、年間の米輸入が1999年と2004の間に152,000トンから301,000トンになり2倍になった。

この市場開放はフィリピンを他の国々の政策で傷つきやすいものにした。当時インドは余剰米を放出していて、インドからの米輸入が2001年の7,900トンから2002年の60,300トンまでに増大した。この輸入急上昇の結果として、米作農民は強い打撃を受けていた、そして多くの農民が米作から去っていった。稲作のための土地が1999年と2004年間に31.2パーセント下がった。

FAO によれば、コートジボアールもまた、市場開放がされた時、輸入の殺到が起きている。コートジボアールは、WTOとの約束を実行した結果として、鍵となる農業作物、特に米の輸入制限を取り除いた。すべての農産物の関税が、25の関税品目以外、最大で15パーセントに設定された。

その結果として、米輸入が1997年と2004年の間で、470,000トンから715,000トンになり、年6パーセントで増加した。米輸入は主にタイ、中国、インドからであった。国内の生産高がこの期間で40パーセント下落した。

ネパールでは、市民社会組織の「ActionAid」は以下の記録を取っている:「米輸入は1994年、1996年、2000年に急騰して、輸入が各年175パーセント、55パーセント、800パーセントになっている。1999年米輸入の24,500トンから、2000年までに輸入が195,000トンに達していた。ネパールとインド間の穴だらけの国境とネパールインド貿易条約(NepalIndiaTrade Treaty)がこれらの輸入急上昇の原因として広く見られている。ネパールのある地域では、国内農作物価格がほとんど20パーセント低下した。インドと境を接している南部地帯では多くの米プラントと米挽き工場が閉鎖された。

今日では、最近の歪んだ出来事のため、食量価格が世界的不足のために増大した。食糧生産が生物燃料生産に転向されたからである。オーストラリアでの干ばつが世界市場での欠乏要因になった。商品市場を対象にしている投機家達がさらに価格をつり上げている。

37にのぼる国が食料抗議と暴動に襲われている。カメルーンでは7人が2月の騒動のなかで死んだ。食糧暴動は今年3月にコートジボアールのアビジャン(Abidjan)でまた勃発している。

スイス、ベルヌ(Berne)でのグローバル食糧危機に対処するため開かれた会合で、バン・キ-ムーン国連事務総長、ロバートゾウリック(Robert Zollick)世界銀行会長、WTO長官パスカル・ラ(PascalLamy)は再び「自由貿易」を万能薬にする訴えをしている。しかし農民達は、これまで20年間農業の破壊に寄与した同じ政策をさらに強める事が助けになるとは信じていない。

食糧危機解決を助けるのにさらなる自由化をするという、ドーハラウンド(Doha Round)を擁護するWTO指導体制、世界銀行、国連による押し付けに対して、小作農民の世界ネットワーク「La ViaCampesina」のコーディネーター、アンリ・サラギ(HenriSaragih)、は、こう述べている;「食糧を守ることが自由貿易規則の下で犯罪になってしまった。保護主義が汚い言葉になってしまった。他方国々は安い食糧輸入の中毒者になった、そしていまや価格が急上昇してしまい、飢餓がその醜い頭を上げてきている。」

Author:事務局 : 2008年05月14日 17:49