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「ムラは問う-激動するアジアの食と農」

中国新聞取材班  農山漁村文化協会 刊
    評者 徳江 倫明(株式会社エフティーピーエス)

 一月三一日、目を覆いたくなる事件が起こった。
 中国から輸入された冷凍ギョーザから有機リン系農薬、メタミドホス一三〇ppmの残留が確認された。しかも食した消費者の急性中毒から事が発覚した。
 昨年は、正月明けの不二家偽装表示問題に始まった日本の食の問題。その後ミートホープ事件、名古屋コーチン、比内地鶏、宮崎うなぎ、赤福、マクドナルド、船場吉兆…と偽装表示が続き、昨年度を象徴する漢字は「偽」ということになった。新年早々、しかも二年連続、この国の食のお粗末さが露呈していく姿は、一方で年々顕在化し、実感となっていく温暖化の深刻さと重なっていく。
 僕は、昨年の正月から五〇?の手習いとでも言おうか、ブログなるものを書き始めた。農業やら環境やら、これまでの経験から日々起こる事柄から感ずることを素直に書きとめ、改めて自分というものを考えてみるという作業である。一年たってみればその多くが農業という視点からの食の安全や環境という問題に費やされているという具合である。
 今回の「中国餃子問題」の一報が伝えられた時、いつものごとくマスコミのセンセーショナルな取り上げ方、中国農業の「質の悪さ」「ひどさ」ということだけに焦点をあて、煽るだけ煽る、批判精神の欠落した日本の報道の危うさに懸念を持ち、報道が始まった一月三一日のブログには以下のように書いておいた。
 『第一はこの問題は中国の食品の安全問題ということではなく、あくまで日本の食品の安全問題だということだ』
 消費者が手にし、購入したのは中国天洋食品の冷凍食品ではなく、ジェイティーフーズの冷凍食品であり、生協の冷凍食品ということだ。たまたま原料が中国で、工場が天洋食品だったということである。
 さらに中国河北省の農家→輸送・保管→天洋食品→中国検験検疫総局→船舶輸送→双日→保管→厚生労働省検疫所→ジェイティーフーズ→保管・輸送の先にさらに多くの日本の問屋と小売があり、フードチェーンのつながりは多岐にわたる。問題はそのフードチェーンの各段階でどのような管理をしていたか?誰が商品開発者なのか?一朝一夕には問題の所在は解明できない。
 いまや食のグローバル化は拡大する一方であり、日本は六〇%強の食品を外国に頼っている国、それがなければ日本の食は成り立たないということだ。その中でも輸入される生鮮野菜の四〇%、冷凍食品の六〇%は中国。さらにその中国も急成長による物価高で、よりやすい原料と加工費、人件費を求め、工場はタイやベトナムに移るケースが増えている。
 しかもほとんどは日本の企業が開発者となる、いわゆる「開発輸入」ということを考えれば、今回の問題はあくまで「日本の食品の安全問題」として原因を追究することが本来の道筋ということだ。
 『第二は、今回の中毒症状から判断できるのはこの問題が単なる原料野菜の残留農薬問題とは考えにくいということである』
 有機リン系農薬は、日本でも六〇年代、七〇年代に大いに問題にされた農薬である。有機リン系農薬はコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害し、神経系に作用する。人間の神経がもっとも複雑に絡み合うのは目といわれ、昔、農村の子供たちに近視や視野狭窄など様々な障害が起こり、農村医学界からこの有機リン系農薬の問題が指摘されるようになったという経緯がある。しかも問題は慢性中毒問題として取り上げられていた。
 今回のような急性中毒は農薬を直にまく農家自体の被害であり、本当の農薬の被害者は農家そのものだという認識が広がったのである。つまり、消費者が食べて急性中毒を起こすとすればよほどの濃度ということになり、単位面積当たりの農薬使用量が世界一といわれてきた日本でも記憶にない事件なのだ。極めて特殊なケースという認識のほうが解決を早めると思う。だから、今回の問題を短絡的に原料野菜の残留農薬が原因として捕らえ、中国の農業はひどい、農民のレベルが低い、ひいては中国という国は…というセンセーショナルな取り上げ方は逆に日本の食にとっても、政治的にも、実態の把握においても別の大きなリスクを招きかねないという危惧をもってしまうのだ。
 結論をいえば、僕は今回の問題は原料の残留農薬問題ということに疑問を持っている。おそらくは加工過程、あるいは保管で何らかの問題があったのではないか、あるいは穿った見方をすれば、工場の労使問題というか、何らかのトラブルが原因となり人為的な行為があったのではないかとさえ思えてくるのだ。日本でも「格差社会」ということが言われているが、中国では現状そのような問題が起こっても不思議ではないほどの格差が生まれ、工場でのトラブルが起こっていると聞く。
 実際、僕も一五年ほど前、同じようなトラブルをフィリピンとの関係で経験したことがある。その時は農薬ではなく、人為的に入れられた異物混入ではあったが、問題の深さに驚いたものだ。
 そもそも食の安全は一〇〇%完全ではありえない。グローバル化によってフードチェーンが複雑になればなるほどそのリスクは高まる。しかも残念ながら日本の食はよりその傾向が強く、一つ一つ地道に解明していくほかない。
 さて、この問題の発覚と前後して中国新聞取材班による「ムラは問う―激動するアジアの食と農」(農山漁村文化協会刊)の書評依頼を請けたのである。
 忙しさの中で、ペラペラと「第一部ムラの存亡の危機――飽食ニッポンの影」に目を通し始めたのであるが、僕は久しぶりに暗い気持ちになってしまった。
 生産者とお付き合いする仕事柄、僕は頻繁に「ムラ」を訪ねる機会が多いということもあり、ここに書かれている実態、しかも新聞社らしくとでも言おうか、淡淡と事実を伝えていく姿勢で書かれた内容はかえって重い。このような状況が訪れることはもう三〇年来の議論ではあるが、その現実化した姿、さらに加速度が増すであろうその事実に対して、何ら有効な手立てが見えないからだ。
 そんな思いで目次を見ながら、その重さを解消すべく「第三部食と農を結ぶ新たな胎動」に目を移してみた。「ムラ」で営々と棚田に向かう人々、有畜複合農業、地産地消の取り組み、団塊の世代、若者に増えてきた帰農の動きなどが紹介されている。
 僕はそこに書かれた地道な取り組みが、崩壊する「ムラ」の希望に結びつくことを否定はしない。自分自身の今後の生き方、働き方をイメージすればその一つ一つが魅力あるものと感じられる。あるいは今までマイナスと受け止められていたものがかえってプラスに転ずる、そのように時代の価値観が転換していく大きな証なのかもしれない。
 しかし、第一部の事実がもたらすであろう結果に対して第三部を対峙させても、どうもしっくり来ないと思うのは僕だけであろうか?個々の動き、価値観、ひいては生き方ということでは理解できても、そのこと自体が第一部の問題解決につながるかということである。
 棚田を守り続けてきた農家がつぶやく、それでも「山が近うなった」という言葉はそれこそ重い。我々が日本の農業や食を語るに、大きな視点が欠落しているのでは…。
 そんな風に思いながら、軽く書評を引き受けたことに後悔していたのであるが、最後に「第二部激動するアジアの食と農」を読み進めながら、中国、タイ、韓国にまで取材班を送り込み、現地の細やかな実情まで踏み込んだこの本の目指そうとした意図、淡淡とした事実を積み重ねた取材の意味にたどり着いたのである。
 日本だけを見て、日本を知ることは難しい。そればかりか自らの足元を検証せず、他者をあげつらうのは愚の骨頂である。自らが他者に及ぼしている影響こそ知るべき問題だ。
 僕には今回の中国餃子問題が象徴する中国の農業や食品の安全管理の問題は、そのまま日本の農業や食品業界の問題としか見えない。ここぞとばかり中国をあげつらうのは、まさに経済という軸、グローバル化という軸にすべてを置き換えてきた日本の精神の貧困さを示しているように思える。
 高度経済成長のさなかの日本の姿、そして今も継続する問題でありながら、このような問題が起こるたび、だから国産だ、安全な日本の農産物と根拠を曖昧にしたままのキャンペーンを行うメンタリティが続く限り、この本で問うている日本農業の現状、特に中山間地の疲弊に対する根本的解決策などあり得ようはずがない。
 今回の中国餃子問題はあくまで「日本の食の問題としてとらえるべきもの」という僕が提示する視点はまさにここにある。中国やタイや韓国など、今回の問題も大きく激動するアジアの農業、食の問題と表裏であり、もっと言えば世界という視点から食のグローバル化がもたらす問題、そこを含みこんだものとして日本の現実を見る。その視点の確立なくして真の原因にたどりつくこともなければ、解決もありえない。
 「ムラは問う」とはそのことを問うている。激動するアジアの食と農を問うてこそ「ムラ存亡の危機」が見えてくる。
 ところで、最近、中国餃子問題を切っ掛けにして新聞社の取材を受ける機会が増えている。その記者が一様に言うのは、もはや「何を書いていいかわからない」という言葉だ。
 日本において、産地偽装も、表示偽装も、残留農薬も、もはや「普通のこと」になってしまった。センセーショナルなはずのものがそうではなくなった。しかし事件が起これば書かなくてはならない。表層だけをたどり、中国だけをあげつらっても、あるいは重箱の隅をつつくことを繰り返し、つまるところモラルの問題で終わる流れに書くほうも疲れている。
 「本当のことを書きたい」、「どのような視点で書けばいいのか」、「真の原因は何か」、「誰に何をメッセージすればいいのか」。今、彼らが問い始めている。
 「ムラは問う―激動するアジアの食と農」という本、地方の同業者の地道な取材が投げかける視点。報道、メディアに場を置く彼らこそ、その読者となるべき本ということではなかろうか。

Author 事務局: 2008年03月31日 23:26

 
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