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『いま自然をどうみるか』

「いま自然をどうみるか」 高木仁三郎 著 (白水社)

評者 阿部 均(米沢郷牧場)

 本書は、初版が一九八五年、九八年に増補新版、東日本大震災と福島原発の事故を機に昨年新装版が出された。
 私たちは、自然をみるとき、いわゆる五感で感じるものと、「一見したところ理性的に解明された整然たる自然像」がある。だが、後者は、「今というかけがえのない瞬間の、実際のこの世界の中で、私たちがいまそうしているように生きていることの意味を示してはくれない」。
 高木氏は、「私たちの自然観は、科学的・理性的なものと、感性的・身体的なものとに鋭く引き裂かれてしまっている。それによって私たちは自然とのトータルな結びつきを失っている」と言う。その引き裂かれたものは、「詩人たちの自然」と「科学者たちの自然」、「手の自然観」と「知の自然観」とかの対比した表現がある。
 故高木氏は、「いまや国民のデータベース」となった原子力資料情報室の前代表であり、核テクノロジー(「プルトニウム社会」)の問題の摘出と提示した著作が数多くある。その著者が、科学(技術)批判からもう一歩進めて、基底となる自然観の問題に立ち入り、「自然とは何か」という問いに取り組み、自由と解放の自然観へと思索の歩みを進めたのが本書である。
 西洋的自然観の顕著な特徴は、①自然を人間にとって克服すべき制約とみる、②自然の有用性を見てそこから能うかぎり多くの富と利潤を引きだそうとする、③自然利用のために自然を私有の前提とする、ものである。そして「人間の主体性の発露と自由の拡大とみて、進歩と自由の名において正当化した」ことが最も重要であると著者はいう。そこには人間中心の独善と欠落が生じ、今日の自然と人間の関係における危機を生み出してきた。「自然の知」に学ぶのでなく、「自然についての知」が自然を損なうのである。
 本書は「第一部 人は自然をどうみてきたか」と「第二部 いま自然をどうみるか」から成る。著者は、面倒くさければ一部をとばしても構わないと言っているが、逆に、ギリシアから始まって現代にいたるまでの西洋の自然観の変遷・知的展開を追うことは、新鮮で興味深く、スリリングでしかも刺激的である。不十分ながら要約は以下。
 ギリシアの「知の自然観」は自然を神話の世界から解放し、それが科学につながった。そこには歴史の底流として日常の農業労働等の「手の自然観」も存在し続けたが、貨幣経済の発達に伴う精神労働と肉体労働の分離が起因となり、人間から自然を切り離した。人間を「自然を統一的に把握しうる存在」として科学文明(自然を機械としてみる)を生み出した。
 近代科学の定立の中で、視点が宇宙にも及び、人間は相対(絶対)化され、人間中心主義に抽象化されていく。そこでは、人間は自然を超越し、自然を利用と操作の対象と見、数学的手法での数量化による普遍化が行われ、「〈なぜ〉を棚上げにし、〈いかに〉によって世界を解くことができる」(二元論)とする。ニュートンのくだりは圧巻である。
 現代では「科学」は合理性という強制力をもった政治的力である。自然について「自然科学」が唯一普遍な認識であることを、国家政策・産業・教育等様々な制度に守られながら、常に自己主張し、排他的に振舞う。「客観的な科学」がすぐれてイデオロギー的な存在として機能している。
 このように「自然とは何か」を問うことで、これまでの科学万能主義(科学技術に対する盲信)を掲げた経済第一主義の近代化の展開そのものを見ることができる。
 第二部「いま自然をどうみるか」では、物理学者たちが熱学的な地球モデルとして、〈生きた地球〉=宇宙に開かれた「開放定常系」(水と土を媒介した循環)と捉え、地球・生態学が多様な生物の共生の総体として〈生きた地球〉(ガイア理論)を捉える転換が提示され、人間と自然の新しい関係を考察する。そこでは「進化論」や「文化論」まで思索され、人間中心主義の自然観からの一大転換の必要性を説く。
 原発問題は、いま現在も、主要には安全性や経済性の問題として考えられているが、「新しい(別)次元」の問題としてある。放射性廃棄物は、絶対に自然の循環には戻せない。放射性廃棄物とともに「情報」の閉鎖系をも生み出し、社会を硬直化する。脱原発は、自然と人間の新しい関係のはじまりとなるかもしれない。
 自然と人間の関係の復権には、「私たち自身がみずから自然な生き物としての自然さに素直に従う」、「社会全体が、生態系の生きた循環の中に位置づけられる」とする著者は、「適正技術や地域主義や手作り運動などはパッチワークにすぎない」と今あるエコロジズムに手厳しい。
 本書を通して、著者が試みた思索は、現代の危機の根源に立ち向かうため、「自然さに依拠した社会的な運動」を提起し、労働と生活の観点を加えながら、より自由でよりナチュラルな精神と身体のあり方を模索することにある。
 三・一一以降、改めて「自然とは何か」ということを、一人ひとりが問い直さなければならない。そのとき、身近に置き、ゆっくりと落ち着いて繰り返し読みたい自然哲学の書である。

Author 事務局: 2012年07月01日 22:20

 
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